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スウェーデン発、世界28カ国で訳されている大ヒットファンタジー、『ザ・サークル 選ばれし者たち』が日本でも発売になりました。
高校生の少女たちの日常がリアルに描かれているのも読みどころ。10代の生きづらさは遠い北欧でも同じなのだと思えます。
冒頭から2万字あまりを掲載しました。壮大な物語はここから始まります。








翻訳家、金原瑞人さんの推薦の言葉

一気に読み終えて、茫然としている。
これを超える続刊など書けるはずはない、と思いながら、読みたくてたまらない。
魔法と闇と、息苦しいほどリアルな女子高生たちの青春。
ファンタジーはここまで進化した。



本国スウェーデンで日本版カバーが大反響!

日本版のカバー画像が公式Facebookで公開されると、「クール!」「だれが描いたの?」「読めないけど日本版欲しい!」とスウェーデンで話題に著者ふたりも大いに気に入ってくださったようです。

タイトル文字などが入らない、その話題のカバーイラストだけを特別公開します。
なお、「選ばれし者」のひとり、リニーアが着ているのは、日本のロックバンド、DIR EN GREYのTシャツ。スウェーデンでは音楽、映画、アニメ、コスプレなどの日本文化が人気で、若者たちに浸透しています。
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著者のマッツさんも日本語版が出たことで、(日本文化ファンの)リニーアとエリアスがついに日本に行けた! とツイートされました。
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イラスト:古賀サリー
Profile:グラフィックデザイナーを経てイラストレーターとして別名で活動中。
趣味で描いていた「ワンピース」のイラストが出版社の目にとまり古賀サリーとして今作でデビュー。



登場人物紹介ページ、あります!

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人物紹介ページがあります。覚えにくい(?)スウェーデンの名前も気にならず、読み進めることができます。



わたしたち、逃げるわけにはいかないの、誰も。

Story
スウェーデンの田舎町、エンゲルスフォシュ。退屈なこの町の高校のトイレで、男子生徒、エリアスの遺体が見つかり、自殺と断定された。
その翌日、6人の女子生徒が導かれるように集められ、「選ばれし者」であると告げられる。来るべき邪悪の攻撃から力を合わせて世界を守る使命があるというのだ。
だがあまりにバラバラな6人は、なかなか集うことができない。そこに敵は着実にしのび寄ってきた。
見えない恐怖と戦う彼女たちには、いじめ、複雑な家庭、先生への恋、摂食障害、などの生々しい日常がある。

世界を救う使命と、今日の恋、
命を懸けた戦いと、明日を忘れるパーティ……。

息をもつかせぬ展開のなか、少女たちが見つけ出した敵は――。

スウェーデンのベストセラーファンタジー、『ザ・サークル』は、3部作の1作目。世界28か国で訳されている。本国では映画の撮影も話題になっている。



ザ・サークル 選ばれし者たち
PART I

1
 エリアスは何と答えていいかわからなかった。校長は返事を待っているが、彼女を満足させられる答えなど存在しないのだ。仕方なく、エリアスは自分の手を見つめた。とても青白く、蛍光灯のくっきりした光の中で血管が透けて見えた。
「どうなの、エリアス?」
 こんなに狭くて悲惨な校長室によく我慢できるな、とエリアスは思った。ファイルがいくつも並んだ棚。鉢植えの植物はどれも元気がなく、窓から見える景色といえば学校の駐車場だけ。そもそも校長は、自分自身によく我慢できるもんだ。
「あなたがどういうつもりなのか、教えてちょうだい」校長がまた言った。
 エリアスは顔を上げ、校長を見つめた。もちろん校長は我慢できるのだ。彼女のような人間は、当たり前のようにこの世界に溶け込める。常に、周りの期待どおりにふつうの行動をとれる。それに何より、どんな問題に直面しても、解決法ならちゃんとわかってますよという自信にあふれている。最高の解決法─それは、周りに溶け込み、ルールを守ること。校長アドリアーナ・ロペスは、その哲学に基づいた世界に君臨する女王だった。
「あなたの状態をとても心配してるのよ」校長はそう言った。しかし、本当は怒っているのがエリアスにもわかった。おれがちゃんと気を引きしめないから。「高校生活が始まってまだ三週間なのに、出席率はすでに半分以下。あなたが完全にやる気をなくしてしまうまえに、話し合いたかったの」
 エリアスはリニーアのことを考えようとした。いつもならそれに救われるのだが、今は、昨日の夜どなり合いのけんかをしたことを思い出すだけだった。リニーアの涙を思い出すと心が痛んだ。悪いのは自分だから、彼女を慰めることもできなかった。もう、完全に嫌われてしまったかもしれない。
 エリアスにとってリニーアは、闇を遠ざけてくれる存在だった。安易な逃げ道に手を出さないようにしてくれる存在。かみそりの刃の代わりに、少なくともしばらくの間は、不安を制御してくれる。タバコの代わりに、いやなことを忘れさせてくれる。でも昨日、エリアスは誘惑に流されてしまい、それはもちろんリニーアにバレた。だからもう、嫌われたかもしれない。
「高校というのは、中学校とは違うのよ」女王が先を続けた。「高校になると、個人の自由に任される範囲が増えるわ。でも、それは責任を伴う自由よ。誰もあなたの手を引いて歩いてはくれない。この先の人生がどうなるかは、あなた自身にかかっているの。それが今、この時期に決まる。あなたの将来全部が、よ。本気で将来をドブに捨てたいわけじゃないでしょう?」
 エリアスは思わず吹き出しそうになった。校長は本気でそんなたわごとを信じているのだろうか。校長にとって、おれは“人間”なんかじゃない。また一人“ちょっと道をはずれてしまった生徒”にすぎない。校長にしてみれば、生徒が“思春期”とか“ホルモン”のせいにできない問題を抱えているなんてことはありえないのだ。そこで生徒の助けになるのは、“はっきりしたルール”と“明確な限度”だけ。
「大検があるだろ」
 思わずそんな言葉が口をついて出てしまった。校長が口を横一文字に結んだ。
「大学入学資格検定だって、勉強する習慣がないと通らないわよ」
 エリアスはため息をついた。面談はすでに予定より長引いている。
「わかってます」エリアスは校長の目を見ずに言った。「おれだって人生を台なしにはしたくない。高校でやり直せればと思ってたんです。でも思ったより難しかった。もうみんなよりずっと遅れをとってしまった。でも、今後はがんばります」
 校長は驚いた顔になった。それから笑みが広がった。この面談が始まって初めて見せた、自然な笑みだった。エリアスはまさに校長の聞きたがっていたせりふを言ったのだ。
「よかった」校長は言った。「あなた自身ががんばると決めたなら、あとはうまくいくはずよ」
 校長は前かがみになるとエリアスの黒いトレーナーから髪を一本つまみ上げ、それを二本の指でクルクル回した。窓から差し込む太陽の光で、髪は光って見えた。根元のほうが少し明るい色になっている。元々は金髪の髪が、一センチほど伸びた部分だ。アドリアーナ・ロペスは魅入られたようにそれを見つめていた。それを口に入れて舐めそうな顔をしていたので、エリアスはぞっとした。
 エリアスと目が合うと、校長は注意深く髪の毛をゴミ箱に捨てた。
「失礼。わたしったら、ちょっと神経質すぎるところがあって」
 エリアスはどんな意味にも取れるような笑みを作った。何と答えてよいかわからなかったからだ。
「じゃあ、今日のところはこれで終わりにしましょう」
 エリアスは立ち上がり、校長室を出た。ドアがきちんと閉まらなかったので、振り向いて閉めようとしたとき、部屋の中の校長がちらっと見えた。
 校長はゴミ箱にかがみ込み、細い指で何かをつまみあげていた。そしてそれを小さな封筒に入れ、封をした。
 エリアスはその場に凍りついた。今見た光景を信じられなかったのだ。最近は自分の精神状態を疑うことが多い。特にここ数日は。今のも、あまりにも理解に苦しむ光景だった。校長が封筒に入れたのは、さっきトレーナーからつまみあげた自分の髪だという事実をどうしても信じられなかった。
 その瞬間、校長が顔を上げてエリアスを見た。一瞬、瞳が硬直したが、すぐに笑顔を作った。
「まだ何か?」
「いえ」エリアスはぼそりと言うと、ドアを押した。
 ドアがカチャリと閉まると、驚くほど安堵を感じた。まるで命の危機を脱したような気分だった。

 校舎は空っぽで、ひと気がなかった。なんだか不思議だった。つい三十分前に校長室へ向かったときには生徒でいっぱいだったのに。
 エリアスは大きな足音を立ててらせん階段を下りながら、リニーアの電話番号を押した。ちょうど最後の一段を下り、一階の廊下へと続くドアを開けた瞬間に、リニーアが電話に出た。
「もしもし」
「おれだ」エリアスは言った。
 緊張で、身体が痛いほどだった。
「へえ、そう。そうみたいね」やっとリニーアが返事した。いつものリニーアに戻っている。
 エリアスの緊張が少しほぐれた。
「ごめん。昨日は本当にごめん」
 本当は今朝謝りたかった。会ってすぐに。でもチャンスがなかった。リニーアは一日中エリアスを避け続け、挙句の果てに最後の授業の前に学校から姿を消してしまったのだ。
「ふうん」リニーアの返事はそれだけだった。
 声は怒ってはいなかった。悲しそうでもなかった。ただ虚ろで、あきらめたような声。もう愛想をつかしたみたいに。それは、エリアスにとって何よりも恐ろしいことだった。
「違うんだ。また始めたわけじゃない。もう二度とやらないよ。たかがジョイント[マリファナを巻いたタバコ]一本じゃないか」
「それは昨日も聞いたわ」
「だって、おまえが信じてないみたいだから……」
 エリアスはロッカーの列にそって歩いていた。ねじで床に固定されたベンチをいくつも通り過ぎ、掲示板も通り過ぎたが、リニーアはまだ何も言わなかった。突然、エリアスはおかしな物音に気づいた。自分のではない足音が聞こえる。
 エリアスは振り返った。しかし誰の姿も見えない。
「もうやめたって言ってたじゃない」リニーアの声が聞こえた。
「わかってる。ごめん。おまえを裏切ってしまって……」
「違うわ」リニーアが途中でさえぎった。「あんたが裏切ったのはあんた自身よ。あたしのためにだなんて思わないで。じゃないと永遠に……」
「わかってる。わかってるよ」エリアスは言った。「それはちゃんとわかってるから」
 エリアスは自分のロッカーまでたどり着いた。鍵を開け、中の教科書を黒い布のバッグに入れ、薄いスチールのドアを乱暴に閉める。そのとき、また自分のではない足音に気づいた。足音はその途端に止んだ。振り返ってみるが、誰もいない。ひとっこ一人いない。なのに、誰かに見られている気がした。
「じゃあ、なんでそんなことしたの」
 リニーアは昨日も同じ質問をした。何度もしつこく。でもエリアスは本当のことを言わなかった。恐ろしすぎるから。いくら自分が精神的におかしいとしても、あまりにも常軌を逸している。
「言ったじゃないか。不安が強すぎて」声がいら立って聞こえないよう努力した。またけんかになるのだけは避けたかった。
「それだけじゃないんでしょう?」
 エリアスは一瞬躊躇してから、静かに言った。
「わかった。話すよ。今夜、会える?」
「いいわよ」
「親父とおふくろが寝たらすぐに抜け出すから。リニーア……」
「何?」
「おれのこと、もう嫌いになった?」
「バカな質問ばっかりするんだったら、嫌いよ」リニーアは吐き捨てるように言った。
 ああやっと、やっといつものリニーアに戻ってくれた。
 電話を切ったエリアスは、廊下に立ったまま微笑んでいた。まだ希望はある。リニーアに嫌われない限り、希望はあるのだ。リニーアには本当のことを話そう。エリアスにとってリニーアは、血のつながっていないきょうだいのような存在だった。そうすれば、一人ぼっちでこれを乗り越えなくてすむのだ。
 そう思った瞬間、電気が消えた。エリアスは凍りついた。廊下の片側に並ぶ窓から、弱い光が差し込んでいる。どこか近くで、ドアが閉まる音が聞こえた。そして、静寂があたりを包み込んだ。
 何も怖がる必要はない。エリアスは自分に言い聞かせた。
 出口へと向かう。自分を落ち着かせ、しっかりした足取りで歩こうとした。動揺がわきあがったが、それに支配されないよう努力した。何列も並んだロッカーの角を曲がる。
 すると、そこに誰かが立っていた。
 高校の用務員。これまで何度か見かけただけだったが、一度見たら忘れられない男だった。大きなアイスブルーの瞳。エリアスを見つめるその瞳は、相手の秘密まで見抜きそうだった。
 エリアスは床を見つめたまま、用務員とすれ違った。それでも、相手の視線が自分の背中に突き刺さるのを感じた。吐き気がのどまでこみ上げてくる。食道で脈が強く打ちすぎて、嘔吐中枢を刺激しているみたいだった。エリアスは歩みを早めた。
 ここ半年くらいはうまくいっていたのだ。自分の中で何かが変化し、新しい自分になれた気がした。今通っている児童・思春期精神科の医者は、前の医者ほどバカではなく、エリアスのことを少しは理解してくれているようだった。それに何よりも、リニーアがいた。リニーアはエリアスに生きていることを実感させ、この息の詰まりそうな─しかしもはや当たり前になってしまった─闇から抜け出したいと思わせてくれる。
 だから、なぜ今こんなことが起きるのか、エリアスにも理解できなかった。やっと夜も眠れるようになり、楽しい気分すら感じられるようになったのに。
 三日前、エリアスは鏡の中で自分の顔が変わるのを見たのだ。顔が伸び、ゆがみ、知らない顔になった。自分はついに気が狂い始めたのだと思った。知らない声を聞いたり幻覚を見たりするのは、おかしくなった証拠だ。その事実は、エリアスを心底怯えさせた。
 それ以来三日間、かみそりからもヨンテのブツからも遠ざかっていた。もちろん鏡も避けた。でも昨日、ショーウインドウに映った自分を見てしまった。顔がまるで水のように震え、流れ落ちるのが見えた。そして、ヨンテに電話をしたのだ。
 # おまえはますます気が狂っていく #
 頭の中で、聞いたことのない声がささやいた。エリアスは周りを見回し、自分がまたらせん階段を上り、校長室の前に戻ってきたことに気づいた。自分でも、なぜまたここに来たのかわからなかった。
 電灯がチラチラと光り、それから完全に消えた。階段に続く扉が、背後でゆっくりと閉まる。その寸前に、らせん階段に柔らかい靴音が響くのが聞こえた。
 # 隠れろ #
 エリアスは薄暗い廊下を走った。ロッカーの列を過ぎるたびに、誰か─下手したら何か─が待ち受けている気がした。ちょうど角を曲がったとき、ずっと後ろのほうで、階段へ続くドアが開く音が聞こえた。足音が近づいてくる。ゆっくり、だが確実にこちらへ向かっている。
 エリアスは、校舎を支える背骨のように伸びた石造りの階段までたどり着いた。
 # 階段を上れ #
 その命令に、エリアスの足が従った。一段飛ばしに階段を駆け上がる。いちばん上までくると、今度は狭い廊下を走り出した。突き当たりのドアは屋根へ出られるようになっていて、鍵がかかっている。つまり、行き止まり。そこは学校の中でも、忘れ去られたような場所だった。誰も使わないトイレがあって、リニーアとはよくここで待ち合わせている。
 足音が近づいてきた。
 # 隠れろ #
 エリアスはトイレのドアを開けて中に入った。そっとドアを閉めると、なるべく静かに呼吸をする。耳を澄ませてみる。聞こえるのは、バイクのエンジン音が加速し、遠くに消えていく音だけだった。
 エリアスはドアに耳を当てた。
 何も聞こえない。でもエリアスはわかっていた。そこに誰かが立っている。このドアの向こう側に。
 # エリアス…… #
 ささやき声はさらに大きくなった。それが自分の頭の中だけに聞こえる声だというのは確信していた。
 やっぱり、おれは気が狂ったんだ。エリアスがそう思った途端、また声が聞こえた。
 # そう、そのとおりだ #
 エリアスは窓に目をやった。外には青白い空が見えた。トイレの壁では白いタイルが光っている。ここは寒い。エリアスは、大きな孤独に包まれた。
 # 振り向け #
 振り向きたくなんかないのに、エリアスはゆっくりと振り向いた。もう自分の身体を自分でコントロールできなかった。あの声が身体を支配している。まるで、血と肉でできたあやつり人形になったような感じだった。
 今、エリアスは三つ並んだ洗面台の前に立っていた。それぞれに鏡がついている。自分の青白い顔が目に入り、目をつむりたかったが、それもできなかった。
 # 鏡を割れ#
 エリアスの身体が命令に従った。布バッグを握る手に力が入り、バッグが宙を切り裂く。
 鏡が割れる音が、タイルの壁に反響した。大きな破片がはがれ、洗面台へと落ちる。ガシャンという音とともに、さらに小さな破片になって散らばった。
 今のは誰かに聞こえたはずだ。エリアスは思った。お願い、誰か気づいて。
 しかし誰も来なかった。エリアスは、あの知らない声と二人きりだった。
 エリアスの身体が洗面台に近づき、いちばん大きな破片を拾い上げた。何が起きるかはわかっている。恐怖で気が遠くなった。
 # おまえは壊れている。もう元には戻らない #
 ゆっくりと、エリアスはトイレの個室の中に後ずさった。
 # もうすぐ終わる。そうすれば、二度と怯えずにすむぞ #
 その声は、まるで慰めようとしているみたいだった。
 エリアスはトイレの鍵をかけ、便座に座り込んだ。必死に、口を開いて叫ぼうとする。しかし、鏡の破片をつかんだ手の力が強まり、鋭い先端が手のひらを引き裂いた。
 # 痛みなど感じはしない #
 確かに、痛くはなかった。手から血が流れ、床のタイルに滴り落ちたが、痛みはまったく感じない。身体が感覚を失ない、残っているのは思考だけだった。それに、あの声。
 # これ以上生きていても、人生は良くはならないんだ。今終えたほうがいい。痛みは感じずにすむ。もう裏切られることもない。エリアス、今後は今以上に悪くなるだけなんだ。人生なんてのは屈辱の連続だろう。死んだほうが幸せだぞ #
 エリアスはもう抵抗しようとはしなかった。鏡の破片が、セーターの長いそでを切り裂き、その中に隠されていた傷痕だらけの手首をあらわにした。
 ママ、パパ……。エリアスは考えた。二人はきっと、これを乗り越えられるだろう。あの二人には信仰があるから。また必ず、天国で再会できると思うだろう。
 ママ、パパ、愛してるよ。そう考えると同時に、鋭い破片が肌を引き裂いた。
 でもリニーアには、おれがやりたくてやったんじゃないことを気づいてもらえるといいな。他のみんなはおれが自殺したと思うだろうが、そんなことはどうでもいい。リニーアさえ、わかってくれれば。
 エリアスは今までやったことのないやり方で─つまり、目的意識を持って、深く、手首を引き裂いた。
 # もうすぐ終わる。エリアス。あと少しだ。それですべてが終わる。これでよかったんだ。おまえはもう充分に苦しんだ #
 手首から血が噴き出した。エリアスはそれを眺めながら、やはり何も感じなかった。目の前で黒い点々が踊り始めた。それは踊りながら広がり、ひとつになり、すべてが真っ暗になった。最後に聞こえたのは、廊下での足音。そいつはもう、忍び足ではなかった。もうその必要はないのだから。
 エリアスはリニーアのことを考えようとした。子供の頃、眠りにつく瞬間に楽しいことを考えていれば、悪夢を見なくてすむだろうと頑張ったように。
 # すまない #
 エリアスは、それがあの声なのか自分自身の気持ちなのかわからなかった。
 その瞬間、痛みが訪れた。


2
 意識を取り戻したとき、部屋の片隅に一人取り残されていた。
 地下室は圧縮されたような濃い闇に包まれている。全身が痛んだ。
 身を起こし、シュミーズ[西洋で中世以降使われてきた肌着]の中でひざを立てて座る。右耳はまだ聴覚が戻らず、ずきずき痛む片目は、固まった血でまぶたがくっついたままだった。
 廊下に足音が響き、重いドアが開いた。たいまつの炎が部屋を照らし出すと、彼女は自分の足首から目を背けた。足首は傷だらけで、重い鉄の鎖につながれている。守衛が二人、彼女を床からひきはがした。たいまつを持った男が見つめる中、後ろ手にしばられる。ロープが手首に食い込み肌を切り裂いたが、守衛に痛みを悟られるつもりはなかった。
 たいまつを持った男が、傲慢な笑みを浮かべて近づいてきた。その口には歯がなく、息は腐った肉の臭いがした。炎が顔に近づき、肌が焼けそうに熱い。
「このあばずれめ。おまえの命も今日までだ」男はそう言って、空いているほうの手で彼女の頬をなでた。手がそのまま胸のほうへと下りてく。
 憎悪が湧き上がり、それが彼女の心を強くした。
「お前に呪いをかけてやる」吐き捨てるように言ってやった。「お前の男根など、腐って落ちるがいい。そして、我が主サタンがお前を死の床から連れ去り、悪魔たちが永遠にお前を苦しめるだろう」
 男は、まるで火傷したかのように手を引っ込めた。
「神が我々をお守りくださいますよう……」守衛がつぶやいた。
 彼らがそんなに怯えるのを見て、ほんの少し気が楽になった。
 頭に布袋をかぶせられた。そして迷路のような通路を引きずっていかれる。ちょうつがいがキーっと鳴って、門が開いたのがわかった。
 外だ。朝露のさわやかな香りがする。荒れ狂う暴徒の怒声を予測して身構えたが、聞こえてきたのは小鳥のさえずりだけだった。真っ赤な朝焼けが布袋の隙間から差し込んでくる。南の方角でカッコウが鳴いた。南のカッコウは、死のカッコウ─。
 動物的な本能が身体を乗っ取った。今すぐに、逃げなくては。
 パニックになり、やみくもに走り出した。走ると、足かせについた鉄球が足首に当たる。誰も彼女を止めようとはしなかった。そんな必要はないからだ。どうせそんなに遠くまで行けないうちに、湿った地面に顔から倒れ込むのだ。後ろで守衛たちが笑っている。
「おやおや、サタン様の元へお急ぎのようだな」歯のない男がそう言うのが聞こえた。
 強い腕が彼女を脇から持ち上げ、別の誰かが足を取った。そして、荒々しく空中に投げ出された。身体が一瞬宙を舞い、それから何か硬いものの上に着地する。息ができないほどの痛みだった。馬が鼻を鳴らし、世界が揺れ始めた。どうやら馬車か何かに乗せられたらしい。
「誰かいるの?」彼女は小声で聞いた。
 誰も答えない。
 そのほうがいいわ。彼女は思った。死を前にした人間は、皆孤独なのだから。

 ミヌーは震えながら目を覚ました。まるで一晩中窓を開けっぱなしにして寝ていたみたいに、身体が冷え切っている。呼吸が苦しく、肋骨の間に何か大きくて重いものが挟まっているような感じだった。
 ミヌーは頭まで毛布を引っ張り上げると、ボールのように丸くなった。今まで悪夢は何度も見たことがあるが、これほど身体に残ったことはなかった。自分の部屋の、見慣れた黄色と白のストライプの壁紙が目に入ってこれほど安心したのも、初めてだった。
 しばらくすると呼吸が楽になり、やっと身体に体温が戻ってきた。
 ミヌーは携帯に目をやった。もうすぐ七時。起きる時間だ。
 ベッドから出て、クローゼットを開く。毎日、同じような地味なセーターやカーディガンにジーンズばかり。もっと個性的な服を持っていればよかったのにとがっかりする。ハンガーからブルーのセーターを引きはがしながら、ミヌーは自分で自分がいやになった。自分は本当に、恐ろしく当たりさわりのない存在だ。髪型も変えたことがない。一度も。でも、突然髪形を変えて学校に行ったりしたら、みんながなんて言うだろうか。実はミヌーが心ひそかに憧れているオルタナ系の子たち[現在スウェーデンの若者の間で流行っているゴスロリ系・ビジュアル系・アニメおたく・コスプレやJ-POP、映画を含むジャパニーズカルチャーファンの総称]に、真似してると思われるのがおちだ。
 それにミヌーは服を買いにいくのも大嫌いだった。字が読めないのに本屋にいるような気分になるのだ。他人のことなら、その服がおしゃれだとかださいとか、似合っているかどうかもわかるのに。いざ自分の服のこととなると、カタログをめくるにしてもお店に行くにしても、いつも無難なのを選んでしまう。白。紺。丈の長いセーター。タイトすぎないジーンズ。胸元が開きすぎていないトップス。もちろん無地。ミヌーにとって洋服は、理解はできても自分ではしゃべれない言語のような存在だった。
 服を手に持ったまま、廊下へ出た。両親の寝室のドアは閉まっている。バスルームの洗面台の上には、まだ濡れたままの父親のかみそりが置いてあった。ということは、父親はもう仕事に出かけたのだ。母親のタオルも湿っていたから、今日は仕事は休みだけど、もう起きているのだろう。
 ミヌーはスツールの上に服を置くと、バスタブに入り、シャワーカーテンを閉めた。
 そして急に、自分が煙の匂いがすることに気づいた。黒のロングヘアをひとつかみ鼻に持っていって、匂いをかいでみる。
 二度もシャンプーをして、説明のつかない匂いはやっと取れた。タオルをターバンみたいに頭に巻き、歯を磨き始めたとき、鏡の横にかかっている額に入ったエンゲルスフォシュの古い地図が目に入った。去年の今頃は、叔母のバハールのところへ引っ越し、ストックホルムの高校に通わせてもらえると思っていた。ミヌーは毎朝、この地図を目にするのが大嫌いだった。自分がまだこの町に囚われたままだということを実感させられるから。
 エンゲルスフォシュ。天使の急流という意味を持つ、美しい名前。でも、つまらない町。何もない地方のど真ん中にある。町を囲む深い森ではよく人が道に迷い、消えてしまう。人口は一万三千人、失業率一一・八パーセント。町の経済を支えていた製鉄所は二十五年も前に閉鎖され、町の中心部は空店舗ばかり。生き残っているのはピッツェリア[スウェーデンでは移民が経営する安価なピッツェリアが多い]くらいだった。
 町の真ん中を通る国道と鉄道が町を二分していて、東側にはダム湖、ガソリンスタンド、町工場、閉鎖された製鉄所がある。あと、見ているだけで憂鬱になりそうな団地も。一方、西側には町の中心部があり、教会、牧師館、同じデザインの家が横につらなったテラスハウスが並んでいる。今はすっかり忘れ去られてしまったマナーハウス[かつての貴族や領主の館。現在ではそれを高級レストランやホテルとして利用していることが多い]や、のどかな運河沿いに広がる高級住宅地もある。
 ファルク=カリミ[ファルクはスウェーデンの苗字、カリミはペルシャ語の苗字。ミヌーはスウェーデン人とイラン人のハーフ]一家が住むのは、その高級住宅地だった。薄いグレーのモダンな二階建て一軒家。どの壁にも高価な壁紙が貼られ、家具のほとんどがわざわざストックホルムのデザイン家具ショップから取り寄せたものだった。
 ミヌーが階段を下りると、母親がキッチンのテーブルに座っていた。毎朝父親が熟読する朝刊は、きちんと折りたたまれてテーブルに置かれている。母親はいつもどおりの朝食─つまり熱々のブラックコーヒーのみ─をお供に、医学雑誌を読んでいた。
 ミヌーはボウルにストロベリーヨーグルトを注ぐと、母親の向かいに腰をかけた。
「それしか食べないの?」母親が聞いた。
「ママこそ」ミヌーが言うと、答えの代わりに笑顔が返ってきた。
「ヨーグルト、オートミール、サンドイッチ、ヨーグルト、オートミール……。その繰り返しばかりじゃ飽きちゃうんだもの」
「コーヒーは飽きないわけ?」
「あなたにもわかる日が来るわ」母親はそう言って微笑んだ。そして急に、何もかも見透かすような母親の目になった。「あら、よく眠れなかったの?」
「悪い夢を見たの」
 ミヌーはそれがどんな夢だったか、そして目覚めたときどんな気分だったかを母親に説明した。母親は手を伸ばし、ミヌーの額に当てた。ミヌーは思わず身を引いた。
「病気じゃないわ。そういう種類の寒気じゃないの」
 ミヌーには母親が医者に変身するのがわかった。そんなときは声の調子まで少し変わる。真剣な、専門家の声になるのだ。態度自体も改まった感じになる。ミヌーが小さい頃からそうだった。病気になったとき、一緒に遊んだり、お菓子や漫画雑誌で甘やかしてくれたのはパパだった。ママはまるで、往診にきたお医者様みたいだった。
 ミヌーはいつもそれが悲しかった。でも、最近ではそれが母親の自己防衛本能によるものかもしれないと思っている。母親から医者へと、役割を入れ替えるのだ。ふつうの親としての心配が医者の知識と混ざり合ってしまうと、耐え難いものになるのだろう。仕事柄、人間の身体に起こり得る恐ろしいことや、それが手の施しようがない場合もあるという現実をよく知っているのだから。
「動悸がしたの?」
「うん。でももう治った」
「呼吸は苦しかった?」
 ミヌーはうなずいた。
「パニック発作かしらね」
「パニック発作なんて起こしたことないわ」
「ミヌー、何もおかしなことじゃないのよ。高校生活が始まって、環境が大きく変化したんだから」
「そんなんじゃないわ。夢のせいよ」
 口に出して言うとおかしく聞こえるが、でも実際そうなのだ。
「感情を自分の中に押し込めておくのは良くないのよ」母親は続けた。「それは色々な形で表に出てくるものなの。自分で抑制しようと思えば思うほど、コントロールが効かなくなるのよ」
「ママ、いつ外科医から精神科医になったの?」ミヌーは嫌味を言った。
「実は昔、精神科医を目指したこともあったのよ」母親は少しむっとした様子で言った。でも、それから表情が変わった。「ママがあなたにとって良いお手本じゃないのはわかってるわ」
「やめてよ、ママ」
「いいえ。ママはずっと典型的なお利口さんだった。それをあなたにまで押し付けたくないの」
「押し付けてなんかないわよ」ミヌーはつぶやいた。
「また今朝みたいなことがあったら、ママに教えてちょうだい。約束して」
 ミヌーはうなずいた。たまにしつこすぎることもあるけれど、母親が心配してくれるのは心強かった。それに母親は実際、ミヌーのことをよくわかっている。少なくとも、たいていの場合は。
 ああ、なんて悲しいんだろ─ミヌーはそう思いながら、ヨーグルトの最後の一口を口へと運んだ。友達が母親だけだなんて。

* * *

 ヴァネッサは鼻をつく煙の匂いで目を覚ました。
 あわてて毛布を蹴り上げ、ドアまで走りこじ開ける。
 しかし、リビングでは何もかもいつもどおりだった。カーテンを舐めつくす炎など見当たらない。キッチンから黒い有毒な煙があふれ出しているわけでもなかった。ソファテーブルには、宅配ピザの空箱とビールの缶が何本か置きっぱなしだった。シェパードのフラッセが、陽だまりの中に寝転がっている。母親と、その彼氏のニッケと、二人の間に生まれた幼い息子メルヴィンは、もうキッチンで朝ごはんを食べていた。それは、いばら通り十七Aの五階でエレベーターを降りて右側のひとつめのドアの内側で繰り広げられる、典型的な朝の風景だった。
 ヴァネッサは自分にあきれて頭を振った。そして気づいた。この匂いは自分自身からきているのだ。髪が煙臭かった。子供の頃、ヴァルプルギスの夜[四月三十日か五月一日に北欧・中欧で行われる行事。スウェーデンでは、春の到来を祝う大きなかがり火が各地でたかれる]にオルソンの丘で、バカみたいにずっとかがり火を見ていたときみたいに。
 ヴァネッサはリビングを横切った。メルヴィンがスプーンを二本握って、それをテーブルの上で踊らせて遊んでいる。弟は途方もなく可愛かった。この子の半分がニッケの遺伝子でできているとはとても信じられないくらいに。
 ヴァネッサは、パジャマをバスルームの床に投げ捨てると、シャワーの栓をひねった。水道管がゴホゴホと咳をしてから、氷のように冷たい水がほとばしり出る。ニッケが自分で水道管を交換して新しい混合弁をつけて以来、シャワーは悲惨な状態だった。そのときばかりは母親もさすがに反対したが、結局いつも最後はニッケのしたいようにさせるのだった。
 ヴァネッサはシャワーの下に立ち、火傷しそうになりながらやっとちょうどいい温度のお湯を出すことができた。甘いココナツの香りがする母親のシャンプーで頭を洗う。それでもまだ、おかしな煙の匂いが髪に残っていた。ヴァネッサはシャンプーをたっぷり出すと、もう一度洗い始めた。
 バスローブを着て自分の部屋に戻り、ラジオをつける。ヒステリックなCMの音で、やっといつもどおりの気分になった。さらに、ブラインドを上げるとすぐに機嫌が直った。外は快晴。これなら薄着で平気だ。すぐにでも太陽の下へ飛び出したかった。
「おい、ラジオがうるさいぞ!」キッチンから、噛みタバコ愛好家独特のだみ声でニッケが叫んだ。
 ヴァネッサはそれを無視した。
 あんたが二日酔いだろうと、あたしには関係ないっていうの。ヴァネッサは脇の下にデオドラントを塗りながら思った。
 服を着ると、化粧ポーチを手に、壁に立てかけてある姿見の前に立つ。
 しかし、そこには誰も映っていなかった。
 ヴァネッサは空っぽの鏡を見つめた。片手を上げ、自分の目の前で止めてみる。そこに、手はちゃんと存在した。もう一度鏡を見つめる。そこにはやはり何も映っていなかった。
 自分はまだ眠っているのだ。それに気づくまでに、少し時間がかかった。
 ヴァネッサは微笑んだ。これが夢だとわかったからには、自分のしたいことをしていいのだ。
 ヴァネッサは化粧ポーチを置くと、キッチンへ向かった。
「おはよう!」
 誰も反応しない。自分は本当に目に見えないのだ。ニッケは座ったまま、頭を抱えて半分眠りこけている。昨日のビールの匂いを漂わせて。母親も同じくらい疲れて見えたが、〈クリスタルの洞窟〉とかいう店のカタログをめくりながら、ハムをのせたパンを口に突っ込んでいる。メルヴィンだけが、何か聞こえたみたいにこちらを向いた。でも、何も見えていないのは確かだった。
 ヴァネッサはニッケの隣に立ち、その耳にささやいた。
「あらま、二日酔い?」
 何の反応もない。ヴァネッサはほくそ笑んだ。自分でも不思議なくらい興奮している。
「あたしが、どんなにあんたのことを嫌いだか知ってる?」ヴァネッサはニッケに向かって言った。「自分がどんなにみじめな負け犬かもわかっちゃいない。それがあんたのいちばんの問題点ね。自分のことを素晴らしく完璧だと思い込んでるんだもん」
 突然、ヴァネッサは手に湿ってザラザラしたものを感じた。見下ろすと、フラッセが手をなめている。
「ふぁっせ、なにちてるの?」メルヴィンがかん高い声で聞いた。
 母親も犬を見つめた。
「あらほんと、フラッセはどうしたのかしらね。ハエか何か追いかけてるんじゃない?」
「おい、いい加減にしろ! そのクソいまいましいラジオをぶっつぶすぞ!」ニッケがヴァネッサの部屋に向かって叫んだ。
 ヴァネッサは鼻で笑うと、キッチンに目をやった。キッチン台の上に、ニッケのお気に入りのマグカップが置いてある。青いマグカップには、アメリカ警察のロゴと、NYPDという白い文字が入っていた。エンゲルスフォシュの警官の日常は、ニューヨークの裏通りをパトロールするのとさほど変わらないと錯覚しているらしい。
 ヴァネッサは素早く移動すると、マグカップを床に落とした。それはとてもいい音を立てて真っ二つに割れた。でもメルヴィンが音に驚いて泣き始めたので、ヴァネッサは良心が痛んだ。
「くそっ、どうなってんだ!」ニッケがわめき、急に立ち上がったので椅子が後ろに倒れた。
「あたしのせいにできないなんて、本当に残念よねえ」ヴァネッサは勝ち誇ったように言った。
 ニッケがまっすぐに彼女をにらみつけた。二人の視線が合う。ショックが、ヴァネッサの背骨を電気の振動のように伝わった。
 見えているの?
「誰のせいにすりゃいいってんだ!」ニッケが吐き出すように言った。
 それから、泣いているメルヴィンを抱き上げ、チョコレート色の巻き毛をなでた。
「よしよし、坊や」息子をあやしながら、ニッケはヴァネッサのほうをにらみつけた。
「ヴァネッサ、あなた何やってるの?」母親がすごく疲れた声で聞いた。
 ヴァネッサはなんと答えていいかわからなかった。この夢はいったいどこから始まって、どこで終わったの?
「ずっと見えてたの?」ヴァネッサは聞いた。
 母親は急に目が覚めたみたいだった。
「あなた、変なものやってないでしょうね」
「ママのバカ!」ヴァネッサはそう叫ぶと、廊下へ走り出た。
 怖くなった。身の危険を感じるほどの恐怖。でもそれを気づかれたくなくて、靴に足を突っ込むと、バッグをひっつかんだ。
「ちょっと待ちなさい!」母親が叫んだ。
「何よ、学校をさぼれっていうの?」ヴァネッサは怒鳴り返し、バタンと大きな音を立てて玄関のドアを閉めた。その音がマンションの廊下じゅうに響き渡った。
 階段を駆け下り、マンションの正面玄関を出ると、そのままの勢いで道路を横断した。バス停で、ちょうど五番のバスに間に合った。
 よかった。バスには知り合いは誰も乗っていなかった。ヴァネッサはいちばん後ろの座席に腰をかけた。
 今朝のおかしなできごとについて、思い当たる説明はふたつしかなかった。ひとつは、自分の頭がおかしくなってしまったというもの。もうひとつは、自分がまた夢遊病になったというものだった。小さい頃、よくそういうことがあったのだ。母親は、昔ヴァネッサが夜中に玄関まで行って、玄関マットの上にしゃがんでおしっこをしたという話を他人に披露するのが大好きだった。ヴァネッサは今でも、眠りと目覚めの間にいるあの感覚を覚えていた。そして、心の奥底では、今朝の一件はそれとは全然違うことに気づいていた。
 あたしは、また夢遊病になったんだわ。ヴァネッサは無理にそう決め付けようとした。
 もうひとつの可能性を直視するのは恐ろしすぎるから。
 ヴァネッサはバスの窓から外を眺めた。トンネルに入り、自分の顔がガラスに映る。ノーメークの目がふたつ、こちらを見つめていた。
「ああもう、最悪……」ヴァネッサはそうつぶやくと、バッグの中をあさり始めた。
 唯一見つかったのは、古いリップグロスだけ。化粧ポーチは部屋の床に置いてきてしまった。ヴァネッサは十歳のとき以来、化粧をせずに登校したことはなかったし、今さらそんなことするつもりもなかった。今日のトラウマはひとつで充分だ。
 バスはひと気のない工業地帯へと入っていった。ヴァネッサの母親はよく、自分が子供の頃はこの製鉄所が町の誇りだったという話をする。当時は、エンゲルスフォシュ出身というのが自慢ですらあったと。ヴァネッサにはそれの何が誇りなのかまったく理解できなかった。この町は昔も、今と同じように醜くつまらなかったはずだ。
 バスが線路を渡り、町の西側へと入っていく。窓の外には、ヴァネッサの母親が“ベリエスラーゲン地方のビバリーヒルズ”と皮肉を込めて呼んでいるエリアが広がった。鮮やかな色の大邸宅を、よく手入れされた庭が取り囲んでいる。まるで、町のこちら側のほうが太陽が明るく輝いているかのようだった。ここにはお金のある人々が住んでいる。医者や、数は少ないが事業で成功した経営者たち。それに、製鉄所の経営者の子孫。
 高校まではまだ距離があった。学校は、中心部から驚くほど離れた場所にあるのだ。
 他の文明から隔絶されて、まるで刑務所みたいね。ヴァネッサはそう思った。





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ザ・サークル 選ばれし者たち

『ザ・サークル 選ばれし者たち』
イースト・プレス刊/1900円+税
全国書店にて好評発売中!

装画・古賀サリー
装丁・ナルティス
四六判 並製 640頁







2014/08/21 更新
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『ザ・サークル 選ばれし者たち』
 
著:サラ・B・エルフグリエン、
マッツ・ストランドベリ
訳:久山葉子
定価 1900円+税 640ページ
四六判 並製
ISBN 978-4-7816-1228-7 C0097

Sara Bergmark Elfgren(サラ・B・エルフグリエン)

1980年生まれ。脚本家、小説家。
映画やテレビドラマの脚本家として執筆活動を始めた。『ザ・サークル』が作家としてのデビュー作。

Mats Strandberg(マッツ・ストランドベリ)
 
1974年生まれ。小説家、ジャーナリスト。
スウェーデンのタブロイド紙の有名コラムニスト。2004年には年間最優秀コラムニスト賞を受賞。3冊の著書があり、数か国で訳されている。
ふたりは2008年に出会い、すぐにティーンエイジャーが主人公である物語への熱い思いで意気投合、一緒に本を書くことになった。

久山葉子(くやま・ようこ)
 
1975年兵庫県生まれ。翻訳家、インテリアライター
神戸女学院大学文学部英文学科卒。
訳書にカッレントフト『天使の死んだ夏』(創元推理文庫)、ランプソス&スヴァンベリ『生き抜いた私 サダム・フセインに蹂躙され続けた30年間の告白』(主婦の友社)など。
2010年からスウェーデン在住。
久山葉子さんツイッターアカウント

CIRKELN (Engelsfors #1)
by Sara Bergmark Elfgren
and Mats Strandberg

Copyright © 2011
by Sara Bergmark Elfgren
and Mats Strandberg
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arranged with Grand Nordic Agency
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through Tuttle-Mori Agency, Inc., Tokyo

This translation sponsored
by Swedish Arts Council