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凍てつく空気の中、一匹の犬がこちらを見ている。
北の大地を流れる川の中州、無人の廃墟。かつてここは“オタスの杜”と呼ばれていた。
写真家・石川直樹が、犬たちとの一瞬の邂逅を軸に、この世界の有り様を綴る——。



#25



猛犬注意!(サハリン・ポロナイスク)





 サハリンにポロナイスクという街がある。日本統治下の樺太時代、“オタスの杜”と呼ばれる場所がこの街の郊外にあった。そこはニブヒやウイルタ、アイヌなどの先住民が一同に集められた場所で、当時は数千頭ものトナカイが飼育される、最北の“観光地”だったという。しかし、現在では寂寞とした廃墟になっている。錆びた鉄くずや朽ちかけた家がいくつか残るのみで、人影は一切ない。
 飼い主がいるのかいないのか、犬たちは鎖に繋がれ、ぼくが近づいていくと、けたたましく吠えはじめた。お腹が空いているのかもしれない。この環境では、自らエサを見つけるのも困難だろう。
 朽ちた家のまわりを囲むのは頑丈そうな鉄の壁である。その錆びた鉄壁に、あるロシア語の言葉が彫りつけてあった。直訳すると“attention! evil dog”すなわち、「注意! 悪い犬」ということらしい。日本の「猛犬注意」と同意なのかもしれないが、「悪い犬」と「猛犬」は、微妙に意味が異なる。ぼくはこの世界に悪い犬も良い犬もいないと思っている。人との関わりのなかで、人間が身勝手な主観で犬に良い悪いというレッテルを貼っているにすぎない。
 壁に、これだけ大書されているところを見ると、この犬は街で人に噛みついたりして隔離されたのか、それとも飼い主の手に負えなくなって繋がれたのか……。犬の鳴き声はいつしか吠え声から、叫び声に変わっていった。
 ぼくは案内人であるポロナイスクの住人に背中を押されるようにして、オタスの杜を後にせねばならなかった。オタスの杜はポロナイ川の中州に作られた逃げ場のない土地である。サハリンに暮らしていた先住民は、戦中は旧日本軍に徴兵され、戦後は旧ソ連にスパイ容疑をかけられるなど、その歩みは決して平坦なものではなかった。無人の土地になった現在、唯一の生き物は犬だ。
 厳冬の廃墟に夕闇が迫っていた。凍った川の向こうに見える空が、徐々に赤く染まっていく。彼はもう叫ばなかった。「何もくれずに、また行っちゃうのか」。“悪い犬”はそんなもの悲しそうな目でぼくを見つめる。後ろを振り返って、ぼくは犬を見つめながらシャッターを切った。一日の最後の光も、もうすぐ消えようとしている。





(了)
―#25―


この連載は隔週でお届けします。
次回は2014年3月20日(木)!
2014/03/06 更新

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Qomolangma チョモランマ
『Qomolangma(チョモランマ)』(SLANT)
『Lhotse(ローツェ) 』に続くヒマラヤ写真集シリーズ第2弾。2001年、23歳の石川は、チベット側から世界最高峰・チョモランマ(エベレスト)に登頂。この遠征は、その10年後にネパール側から再登頂することになるエベレスト、さらにローツェやマナスルといったヒマラヤのへの旅の出発点でもある。当時の写真に加え、2013年末から14年初頭にかけて再訪したチベットの街と人々の暮らしを写しとった作品も収録。





バングラデシュ (世界のともだち)
『バングラデシュ (世界のともだち) 』(偕成社)
世界36か国の子どもたちのくらしを紹介する全36巻の写真絵本シリーズの一冊。石川が担当したのはこの数年で何度か訪れているバングラデシュ。ダッカの中心部からCNGという三輪タクシーで小1時間、ガンジス川をわたった先の街に暮らす、少年アシフの日常を紹介する。青い自転車がアシフの相棒!

石川直樹(いしかわ・なおき)

1977年東京都生まれ。写真家。高校2年生のときにインド・ネパールへ一人旅に出て以来、世界を絶えず歩き続けながら作品を発表している。2000年に北極から南極まで人力で踏破するPole to Poleプロジェクトに参加。翌2001年には、七大陸最高峰登頂に成功。2011年には、2度目のエベレスト登頂を果たす。昨年秋、マナスル登頂に成功。写真集に『THE VOID』(ニーハイメディア・ジャパン )、『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)、『VERNACULAR』(赤々舎)、『Mt.Fuji』(リトルモア)、『ARCHIPELAGO』(集英社)他、著書に『全ての知恵を装備に置き換えること』(集英社文庫)、『For Everest ちょっと世界のてっぺんまで』(リトルモア)他がある。 2008年、『最後の冒険家』(集英社文庫)で第6回開高健ノンフィクション賞、2011年には写真集『CORONA』で第30回土門拳賞受賞。
ブログ:http://www.littlemore.co.jp/foreverest/

[作者より]
3月9日に、ぼくのヒマラヤ撮影行に密着した90分の番組が再放送されます。
3/9(土)13:00~
NHK-BSプレミアム『地球アドベンチャー 冒険者たち
原始のヒマラヤを撮る・石川直樹』
http://www4.nhk.or.jp/boukensha/x/2014-03-09/10/25585/
ヒマラヤ写真集シリーズ第二弾『Qomolangma』(チョモランマ)も発売に。
http://imaonline.jp/ud/photobook/52f44f65abee7b7aae000001
子ども向けの写真絵本「世界のともだち」シリーズの一冊『バングラデシュ』も3月20日に発売予定です。刊行記念トークイベントは、編集者の島本脩二さんと。詳細はこちら。
http://tsite.jp/daikanyama/event/003341.html
4月1日からまたヒマラヤへ行ってきます!