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森田一義ことタモリの本質を追求した『タモリ学』。
本書と連動し補完する、「大タモリ年表」はこちらです。
膨大な量ですので、気になるところからお読みください。





illustration by 小田扉


#1 1945年(0歳) ~1974年(29歳)
#2 1975年(30歳)~1980年(35歳)
#3 1981年(36歳)~1985年(40歳)
#4 1986年(41歳)~1997年(52歳)
#5 1998年(53歳)~2013年(68歳)
#6 2014年(69歳)~2015年(70歳)

#3 1981年(36歳)~1985年(40歳)


1981年(36歳)

▼正月に軽井沢、2月には箱根で、書籍『Sono・Sono』(アイランズ、5月刊行)の編集会議。当時ベストセラーだった、女子大生たちの性の告白本『ANO・ANO』のパロディで、おじさんたちの性の失敗談を綴ったもの。しかし編集会議とは名ばかりの宴会で、赤塚らはお尻にビンを入れるなどした。
▼2~3月、東洋水産「一醤麺」のCMに、寺山修司・野坂昭如のモノマネで出演。タモリによれば寺山の真似のコツは、「青森は寒い。だから首が肩にうずまる。唇も寒い。だからあまり口を開かない。その姿勢で『…ということは問題ではなくて』と相手の言い分を一度否定してから、難しいことをしゃべる」[1]
▼2月21日、「戦後歌謡史」を改めてリリースすることが決まったが、やはり著作権の問題で延期。4月9日に『オールナイトニッポン』で全曲放送。これが評判を呼び、9月10日にLP『タモリ3-戦後歌謡史-』(アルファ)として新星堂チェーンで限定発売され、1カ月で3万5000枚(推定)を売り上げたが、老舗レコード会社からの発売停止を求める抗議が。アルファはパロディの是非をめぐって法廷で争う覚悟を決めていたが、「なぜ新星堂だけで売らせるのか」というレコード店からの反発があり、レコード店を敵にまわすわけにもいかず、程なく発売中止になった。
▼4月、『オールナイトニッポン』の「思想のない音楽会」で2月以降毎週のように流していた、さいたまんぞうの『なぜか埼玉』がシングルで再販され約12万枚を売り上げる全国的なヒットに。この「思想のない音楽」に感銘を受けた井上陽水が「ボクの歌は、今まで思想がありすぎました。それに、暗い。これからは過去を断ち切って、思想のない歌をうたいます」とわざわざスタジオを訪れ宣言したという。陽水は番組の大ファンで、鶴瓶ら友人に「つぎはぎニュース」などのテープを配っていたほど。
▼4月4日、『今夜は最高!』(日本テレビ)放送開始。表紙があってグラビア(コント→番組ではスケッチと呼んでいた)があって座談会(トーク)があって読み物があって音楽欄(ゲストが歌う)がある、雑誌のような番組を目指して制作。基本的に女性ゲスト=パートナーは2週続けて出演し、男性ゲストは毎週変わる。タモリは歌とトランペットを披露していた。「この番組のゲストは絶対に歌を歌わなければいけない」という原則があった。
▼5月1日、LP『ラジカル・ヒステリー・ツアー』(CBSソニー)発売。収録曲の「狂い咲きフライディ・ナイト/スタンダード・ウイスキー・ボンボン」(作詞作曲:桑田佳祐)がシングルカット。それに伴い4月29日~8月27日まで中野サンプラザを皮切りに初の全国縦断コンサート「ラジカル・ヒステリー・ツアー」開催。髙平哲郎によると、名古屋批判全盛の時期だったため当地では「公演中、突如、若者が舞台にかけ上がり、タモリの脇腹を刺す。会場から女の悲鳴とどよめき。ステージ上は血の海。舞台下からタモリを抱きかかえるために走り込む我々と、犯人にタックルしようとする数名のガードマン。実はこれ、タモリと話していて本当にやろうとした」が実現はしなかった[2]
▼5月~、国鉄(現JR)「新幹線」のCMに起用。タモリにとっては念願の鉄道関係の仕事が意外に早く実現した。
▼5月、「広告批評」1981年6月号で「タモリとはなんぞや」特集。ロングインタビューの他、永六輔・江藤文夫・城悠輔らが寄稿。山藤章二・吉行淳之介・加賀美幸子・中村誠一・ビートたけしらがコメントを寄せる。
▼5月2日、『今夜は最高!』のゲストにビートたけし。パートナーの檀ふみはツービートとB&Bの区別がついていなかった。たけしとタモリでブルース・ブラザーズ風にサングラスをかけ「ローハイド」を歌うがふたりとも歌詞を知らず「ローレンローレンローレンローレン」と繰り返していた。なおタモリは、お忍びで来日していたジョン・ベルーシの希望により、六本木のバーで呑んだことがある。彼が亡くなる1年ほど前だったという。「面白い話合戦になって。2時間くらい飲んでましたかね……」[3]
▼5月16日、ライブ「タモリ&ニューハード」(埼玉会館大ホール)開催。
▼7月、書籍『超時間対談』(集英社)が刊行される。故人と語り合うというコンセプトで、複数の著名人が参加。タモリは哲学者アンリ・ベルグソンと架空対談。ベルクソンはタモリの“片目”をイジるなどし、「差別的」笑いなどについて“語り合って”いる。他に、田中小実昌×ハンフリー・ボガード、山下洋輔×ベートーヴェン、唐十郎×シェイクスピア、寺山修司×ランボー、赤塚不二夫×ウォルト・ディズニーなど。
▼7月2日、『オールナイトニッポン』でRCサクセションとスペシャルライブ。
▼8月5日、ラジオドラマ『ピットインでヤマシタ・トリオをディグしていると妙な話が浮かんできた』(NHK‐FM)放送。
▼8月9日、ライブ「ジャズ大名セッション ザ・ウチアゲ」(日比谷野外音楽堂)。筒井康隆・山下洋輔・中村誠一・坂田明・小山彰太・武田和命・ペッカー・吉野弘志・平岡正明・相倉久人・糸井重里・河野典生・堀晃・かんべむさし等が参加。タモリは「だれにでもできるバロック音楽」「中国人ブルース」などを披露。音楽コント「ペニスゴリラアフリカに現る」にも参加。「ペニスゴリラ」は『まんがNo.1』に付録レコードとして収録されたもの。
▼8月23日、『24時間テレビ』(日本テレビ)内で「タモリの素晴らしき今夜は最低の仲間達」放送。日本青年館からの深夜(0:45から75分間)の生中継。ディレクターは『金曜10時!うわさのチャンネル!!』の棚次隆。チャリティ番組にもかかわらず、タモリと赤塚がロウソクを垂らし合うSMショーや、背の低いタモリと赤塚が猫背になり、お尻に座布団を入れ小さいレスラーに扮し、180cm以上あった景山民夫がレフリーをするミゼット(小人)プロレスのパロディなどを披露。苦情が殺到した。
▼9月5日、12日、『今夜は最高!』に桜田淳子が出演。タモリが彼女を気に入り土居甫や坂田明、髙平哲郎らと「桜田淳子を守る会」を結成。三宅恵介によれば、その流れで『いいとも!』テレフォンの初回ゲストになったという。(「日刊ゲンダイ」14・5・28)
▼9月13日、『わが旅・わが心』(フジテレビ)で香港から中国国境まで電車の旅。
▼10月1日、五輪招致で名古屋大敗。IOC総会の約1時間後タモリは『オールナイトニッポン』で、押しかけるマスコミを冷笑しつつ「決まっていればあと7年このネタでつなげれた」「両者にとって不幸」などと発言。
▼10月4日、『夕刊タモリ!こちらデス』(テレビ朝日)放送開始(~翌3月)。ニュースをネタにしたコント番組。タイトルは同局の筑紫哲也司会『日曜夕刊!こちらデスク』のパロディ。『タモリ倶楽部』の前身番組と位置づけられている。
▼11月、第10回「ベストドレッサー賞」スポーツ・芸能部門受賞。この頃、タモリが急速に世間に受け入れられてきたことを示すように、この年の千趣会の新聞広告にタモリが起用され「1年前、女性たちがいちばん嫌い、に挙げた人。なのに、ことしはいちばん好きな人、です」というコピーが踊ったという。[4]
▼11月、平岡正明 著『タモリだよ!』(ソニー・マガジンズ)発売。最初の本格的「タモリ論」というべき作品。
▼11月1日、ライヴドキュメント『わが心のインディオ』(NHK‐FM)放送。この作品は昭和56年度文化庁芸術祭に参加。
▼「婦人公論」で檀ふみと対談(82年刊行『逢えばほのぼの』[中央公論社]に収録)。「まだ『モリタ』だったころ」と題され、タモリのデビュー前の話を中心にしながら、寺山修司と実際に会った時のことなどを語った。
▼セカンドシングルLP『タモリのワークソング』発売。ソニーのAudio & Video TAPEのCMソングで、タモリ本人がさまざまな職種の労働者に扮して出演。
▼この頃、杉並の自宅に1000万相当のオーディオを設置。「日本一音が良い」と言われるジャズ喫茶「ベイシー」のマスターで、オーディオマニアの菅原正二も認めるほど。

1982年(37歳)

▼1月1日、『元旦早々タモリで最高!』(TBS)放送。ビートたけし、竹下景子、大空真弓らが共演。
▼1月2日、『今夜は最高!』で女性パートナーに吉永小百合を迎え正月スペシャル。男性ゲストは沢田研二。スケッチでは眠れる美女(吉永)と王子(タモリ)、吸血鬼(沢田)を演じた。翌週の男性ゲストは野坂昭如。どちらが吉永小百合をより好きかで競っていた。タモリは憧れの吉永小百合とデュエット。
▼1月、「BRUTUS」2月1日号で吉行淳之介と対談(『吉行淳之介エッセイ・コレクション4 トーク』[筑摩書房]に収録)、日本航空の機関誌「Winds」で深田祐介と対談(『男のホンネ』[三笠書房]に収録)。
▼1月21日、『タモリスペシャル 今夜ときめきスペース』(テレビ朝日)放送。
▼1月23日、映画『水のないプール』公開。若松孝二監督、内田裕也主演。タモリはカメラ店主役で出演。
▼1月30日、『今夜は最高!』のゲストにトニー谷が登場。その後タモリはヴォードヴィリアンを継ぐ存在と見込まれたからか、晩年のトニー谷にかわいがられていた。「あの人の晩年のほとんど仕事をしていなかった時期に、俺、可愛がってもらったの。それで、あの人と何回か会って言われたことは、『ボードビリアンってのは音楽だよ。音楽わかんないと、ボードビリアンはできない』って」[5]。なお、タモリとトニー谷の類似性については小林信彦も『日本の喜劇人』の中で指摘している。ちなみにトニー谷は赤塚不二夫のマンガキャラ「イヤミ」のモデルでもある。
▼2月、ガブリエル・ウッシー(本名・内堀尚)著『ぼくはタモリの運転手』(ライフ社)刊行。序文はタモリ。
▼2月11日、『ミュージックフェア』(フジテレビ)出演。タモリはデューク・エイセスをコーラスに従えて歌い、トランペットを演奏。
▼2月12日、「GORO」3月25日号で糸井重里と対談(『話せばわかるか 糸井重里対談集』[飛鳥新社]に収録)。急速に世間から自分が受け入れられつつある状況に自ら「おかしいと思うよ」と語り、この頃から既に「国民のオモチャ」を自称している。
▼2月20日、『今夜は最高!』のゲストに、デタラメ外国語の元祖ともいえる藤村有弘。「デタラメ外国語の応酬がアドリブでできる人は初めて」と藤村に喜ばれる。ちなみにタモリの中国語芸のイントネーションは中国・海南島のそれに近いという。
▼3月、書籍『現代用語事典 ブリタモリ』(講談社)刊行。赤塚不二夫、加藤芳一、長谷邦夫との共著。
▼3月、「新潮45+」創刊号で井上ひさしと「吉里吉里語VSハナモゲラ語」対談。
▼3月、昭和56年度 第19回 「ゴールデン・アロー賞」芸能賞を受賞。
▼4月、書籍『タモリと賢女・美女・烈女』(世界文化社)刊行。黒柳徹子、吉永小百合、田辺聖子、吉田日出子、中村メイコら11人の女性との対談本。吉永小百合との対談では「タモリさんって、とってもイカしてる感じなんですよね」と褒められ「うわあー、駆け回ろうかな、オレ」と舞い上がっている。
▼4月3日放送分『今夜は最高!』第52回から、タモリ所属事務所の田辺エージェンシー・田邊昭知社長発案により半年間の休止。その前段として、田邊は髙平に「止めるわけじゃない。半年休むんだ。その間に、別のタレントが仕切るバラエティを半年やる。それでまたタモリに戻る。つまり、二人のタレントを看板にした二つのバラエティ番組を作り、最初は交互に、評判になれば、一度に週二本の強力なバラエティ番組が流れるわけだ」と説明、「番組を長生きさせるため」「タレントを大事にするため」と語っている[6]
▼4月8日、『夢のビッグスタジオ』(テレビ朝日)放送開始(~5月27日)。西田敏行とともに司会を担当。しかし低視聴率によるプロデューサーの交代に伴い、自ら申し出てわずか6回で降板。番組も8回で打ち切られた。
▼4月10日、『今夜は最高!』に代わり、桃井かおりメインの『日曜はダメ!!』がスタート。ディレクターはドラマ畑の吉野洋、構成は伊集院静ほか。しかし半年を持たず8月で打ち切られ、9月4日から『今夜は最高!』が再開。シーズン制のバラエティ番組の構想は失敗に終わる。
▼4月25日~7月28日、全国ツアー「ラジカルヒステリーツアー'82」開催。
▼5月29日、糸井重里司会の『YOU』(NHK教育)第8回に、山下洋輔とともにゲスト出演。
▼5月、「中央公論」(82年6月号)で筒井康隆と対談(『筒井康隆スピーキング 対談・インタヴュー集成』[出帆新社]に収録)。冒頭から「ベルグソンでも(テーマに)やりますか」とムチャぶりされるが、即座に「ベルグソンっていうのは結局、『バナナの皮理論』でしょう」と負けずに返している。
▼6月2日、『オールナイトニッポン』にLP「ビッグな気分で唄わせろ」のプロモーションでビートたけしがゲスト出演。たけしはアナウンサーに局部を押し付けスタジオ内がパニックに。
▼7月31日~8月1日、「第15回びわ湖バレイオールナイトジャズフェスティバル」(びわ湖バレイ:山麓特設野外ステージ)に参加。
▼8月21日、『24時間テレビ』(日本テレビ)で「最高一座“狂奏”旗揚げ公演」(日本青年館)を深夜に1時間中継。
▼「パーソナル」82年9月秋号で加賀美幸子と対談(『やわらか色の烈風』[筑摩書房]に収録)。加賀美は対談の中で共演した『テレビファソラシド』や一緒に行った首相官邸パーティでのタモリの様子を通じて「タモリさんて、テレビの内側からものを見ている人じゃなくて、外側からテレビをごらんになっていらっしゃる」と評している。
▼9月、面白グループによる書籍『野球のない夜は英語でひまつぶし いたずら英語教室』(ベストセラーズ)刊行。
▼9月5日、ラジオ『タモリと理恵の音楽専科』(文化放送)放送開始(~84年9月30日)。パートナーは中原理恵。
▼10月4日、『笑っていいとも!』(フジテレビ)放送開始。10年2月4日の『いいとも』によると、当日の新聞の番組面に「即興のエンターティナー、タモリが毎日、新しい笑いに挑戦する生バラエティショー」という広告が掲載される。一回目は、「『タモリの世界の料理』のフランス編。フランス人コックに扮したタモリがその腕前を見せる。アシスタントは斉藤ゆう子。『ふんいき劇場タモリ+1』の今日の相手は坂本あきら。ふたりのかけあいが見もの。ゲスト・桜田淳子」とあった。
 タイトルの由来は諸説あるが、「ジャズマンは朝の予定が早いと嫌な顔をする。しかし中村誠一は『いいとも』と即答しており、このフレーズが採用されたという髙平哲郎説が有力。横澤によれば、番組のコンセプトは「何かをバカにする」というものだったという。横澤は「会議は短いほうがいい」と5時半には終わらせ、6時半頃から始まる芝居や映画を見に行くのが常。ディレクターには小劇場を積極的に勧めた。「ウキウキWATCHING」の作曲は伊藤銀次。「タモリといいとも青年隊が踊りながら歌うテーマ曲を書いてくれ」と横澤に依頼され、既にできあがっていた詞に、わずか20分で曲をつけた。当初は3カ月で終わると思ってタモリは渋々オファーを受けた。開始時のレギュラーは斉藤ゆう子・斉藤清六・村松利史・高田純次・桂文珍・松金よね子・田中康夫・井手ひろし(現・井手らっきょ)らで、『笑ってる場合ですよ!』の司会陣は起用されなかった。番組開始以来30年以上の長きにわたり、タモリ発案の企画はほとんどないという。
▼10月8日、『いいとも』テレフォンショッキングに和田アキ子が出演。当時、ゲストが歌手の場合、歌を歌うことになっていたが、歌詞が飛んでしまい号泣。なお、和田アキ子は同コーナー22回出演で最多記録。ちなみにテレフォンショッキング中のタモリとゲストが座るテーブルが長年にわたって端にあり、真ん中に移動した後、タモリが「なんであんな端にあったのか?」とよく言っているが、歌手が歌ったり、タモリやゲストが自由に暴れることができる「なんでもできるスペースを作りたい」という初代ディレクター・永峰明による発案だったという。
▼10月8日、『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)放送開始。田邊昭知のコンセプトは「今のテレビはピシーッと隙間のない番組ばかり。だからこの番組だけは隙間だらけにしてくれ」。スポンサーも社長自ら探してきたという。「毎度おなじみ流浪の番組」というとおり、低予算でオールロケというスタイル。初期は中村れい子とのメロドラマ「愛のさざなみ」、窪田ひろ子による「夜の英会話」、“お尻評論家”山田五郎による「今週の五ッ星り」、久住昌之・滝本淳助の「東京トワイライトゾーン」、「怖いですねアワー」など各回でのコーナー企画も多かった。「Short Shorts」(The Royal Teens)に合わせて「お尻ギャル」(一部男性も)が下着姿でお尻を振るオープニングも有名。「お尻ギャル」はお尻のみのオーディションで選ばれている。
▼10月9日、タモリ主演の映画『キッドナップ・ブルース』公開。小学生の少女が隣の部屋の男と行方不明になり、その1年数カ月後、ふたりが自転車で全国を旅しているところを発見されたという実際の事件をヒントに、浅井愼平が企画・制作・監督・撮影を務めた作品。淀川長治はパンフレットで「タモリ氏と一度テレビでごいっしょしたことがあるが、それまではヤモリのかいぶつのよぅなねんえきてきグロ味を感じたこともあったのだが、さてごほんにんにお逢いするやまるで違った。スタヂオの出番20秒まえ、このひとがセットとライトの横で何やらうつろな目で立たれているプロフィルにわたしは思わずマンハッタンを感じたのであった。ブロードウェイ人種。くろおとのエンタテイナァー。」と語っている(原文ママ)。しかし「この映画はヒットすまい」と。
▼10月24日、『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ)放送開始。平日の昼間に放送した番組の総集編、さらに番外編や放送終了後のトークを放送するのは画期的だった。また、「編集長」という名目で編集者の嵐山光三郎を起用。文化的な側面を押し出しフジテレビの「軽チャー路線」を牽引した。
▼11月17日、坂本龍一が出演。JALのいわゆる「鶴丸マーク」の話題になり、坂本がジェスチャーでそれを表現しながら「あれは『世界に広げよう、友だちの輪』っていう意味なんだ」と語る。タモリが「それは知らなかった」と自分もジェスチャーをして「世界に広げよう、友だちの輪」と言うと、会場から「輪!」という声が一斉に起こった。ここから恒例の掛け合いが生まれる。
▼11月、「Studio Voice」Vol.84で「タモリのタベリとダベリ」と題したインタビュー。
▼12月4日、映画『E.T.』公開。“お涙頂戴”にハマってしまうことがあるというタモリ。「俺は世の中に対してスゴい偏見持って、対決心とかで世の中否定してるんだけど意外なところでコロって泣くことがあるんだよね」「俺がものすごく泣いたのは『E.T.』」[7]
▼12月27日、『笑っていいとも!特大号』(フジテレビ)放送。曜日レギュラーが一堂に会す特別番組。以後、毎年末に放送されている。オープニングのタモリ牧師の挨拶(90年以降)、テレフォンショッキングダイジェスト、最後の「ものまね歌合戦」(89年以降)が恒例企画。
▼「スイングジャーナル」誌上の「日本ジャズメン人気投票」、男性ボーカル部門で1位。(84年まで3年連続で獲得)
▼高橋惠子・高橋伴明の結婚式の司会を務める。
▼「週刊TVガイド」20周年、象印マホービン、片岡物産「アストリアコーヒー」などのCMに出演。

1983年(38歳)

▼1月1日、『元旦早々!笑いと涙で謹賀新年』(TBS)放送。ビートたけしと2枚看板で女優相手にコント。
▼1月1日~3日、『タモリのジャズ特選』(NHK‐FM)放送。
▼3月、「TV LIFE」3月16日・創刊号でタモリが表紙。
▼4月、新宿「ジャズスポット J」で写真展。浅井愼平とのパナマ旅行の写真40点近くを展示。
▼4月、『宝島』(83年5月号)で「ワン・モア・タモリ」と題したロングインタビュー掲載(『ザ・ヒーローズ2 宝島ロング・インタヴュー集』[JICC出版局]に収録)。タモリの初体験の話や大学時代のエピソードなどが語られている。
▼4月5日、『いいとも』「テレフォンショッキング」に楠田枝里子からの紹介で、日本テレビアナウンサー(当時)徳光和夫・小林完吾が、他局の社員にもかかわらず異例の出演。
▼4月17日、『T∨ジョーカーズ笑』(TBS)放送開始(~6月19日)。タモリ、堺正章・東八郎・斉藤ゆう子・小坂一也・研ナオコ・中原理恵らが出演。低視聴率で実質7回のオンエアで終了。
▼4月29日、映画『だいじょうぶマイ・フレンド』公開。タモリ一義名義で刑事役。ボサボサの髪型、理屈っぽい台詞で主人公を尋問。
▼5月7日、『今夜は最高!』に明石家さんまゲストで『クレイマー、クレイマー』のパロディ。86年12月13日にも出演。
▼6月、共著者のひとりとして参加した書籍『私の猫ものがたり』(集英社)刊行。「セイビョウ(※成猫)の餌付けは家庭を破壊するか」と題したで野良猫の餌付けが楽しみのひとつだと語っている。それまでの餌付け成功率は「2勝2敗1分け」。なお当時飼っていた猫の名前はミーとリッチー。他に横山弥助という犬もいた。
▼6月23日、『選挙でいいとも!』(フジテレビ)放送。第13回参議院議員通常選挙の特番で、タモリがメインキャスターとなった。ちなみにタモリはかつて「日本の政治っていうのは、政治そのものが政治のパロディでしょう」と発言している[8]
▼7月2日、映画『刑事物語2 りんごの詩』公開。武田鉄矢主演。タモリは居酒屋の主人役。郷土史マニアという設定。
▼7月30日、野外フェス「カムイト゜ラノ(※アイヌの言葉で「神々とともに」の意)屈斜路湖ジャズフェスティバル」(北海道)開催。プロデューサーはアイヌの友人を持つ赤塚不二夫で、「愛は地球を救う」をもじって「アイヌ地球を救う」というイベント名にしようとしたが採用されなかった。司会はタモリ、スペシャルゲストに日野皓正、韓国の打楽器グループなど。
▼9月21日、村松友視と対談(『こんな男に会ったかい 男稼業・私の選んだベスト9』[日本文芸社]に収録)
▼9月28日、『オールナイトニッポン』最終回。エンディングでは、マイルス・デイビスの「ラウンド・ミッドナイト」をバックに「ずっとやってきたけども、何の感慨もない」と発言。しかし後年、「テレビもまったくない時で、僕はニッポン放送で世に出た訳ですから『何の感慨もない』っていうのはおかしい」と笑って振り返っている[9]
▼11月、景山民夫が『宝島』に連載していた「極楽TV」書籍化に際し、タモリと対談(『極楽TV』[JICC出版局] に収録)。この連載の第1回では『宝島』元編集長でもある髙平の『今夜は最高!』の台本を名指しで批判し、大きな話題となった。
▼11月、書籍『タレント狂殺人事件』(作品社)刊行。ちなみに89年にはビートたけしが『ギャグ狂殺人事件』を刊行している「本格長編推理<私>小説」シリーズのひとつ。タモリ周辺の関係者が実名で登場する。
▼12月、武市好古 編『ぴーぷる最前線 タモリ』(福武書店)刊行。
▼12月、書籍『タモリが本屋にやってきた』(ニッポン放送出版)刊行。『オールナイトニッポン』のエピソードを数多く収録した番組本。タイトルは番組内で公募された。
▼12月1日、『いいとも』で「テレフォンショッキング」ゲストの佳山明生が登場する直前に、「しゃべらせてくれ!」と男が乱入。タモリは冷静に「しゃべりたいことがあるの?」と尋ねていると、スタッフにより男が取り押さえられる。スタジオが騒然とする中、タモリは「生番組って面白いなぁー!」と笑った。
▼「木曜スペシャル『タモリのいたずら大全集』」(日本テレビ)放送(~89年まで)。所ジョージや山本晋也出演の素人いたずら(ドッキリ)番組。なお88年の放送では大竹まことが山瀬まみに「お前失恋したんだってな」と発言したことから、つかみ合いのケンカに発展。大竹は暴走してセットを破壊、以後20年余り年間日本テレビに出入り禁止となった。またタモリの木曜スペシャルでは、他に『抱腹絶倒ハプニング!世界のドッキリNG大全集』(85~87年)、『タモリの世界そっくり大賞』(82~86年)などで司会を務めた。
▼12月31日、『第34回紅白歌合戦』(NHK)アナウンサー以外で初抜擢の総合司会。司会は黒柳徹子・鈴木健二。途中アドリブで「選手宣誓にいってもいいかな?」と観客に呼びかけ「いいとも!」と客が応じた。
▼象印「みェーるポット」、パイオニア「LD/LDソフト」、「週刊TVガイド』などのCMに出演。

1984年(39歳)

▼1月3日、「昭和58年度 第12回 日本放送演芸大賞」大賞受賞。
▼2月13日、『いいとも』「テレフォンショッキング」に明石家さんま初出演。さんまはタモリが「大嫌い」と公言していた小田和正に友達の輪をつなぎ、その日は沈黙の多い緊張感あふれるテレフォンとなった。
▼3月、昭和58年度 第21回「ゴールデン・アロー賞」放送賞受賞。
▼3月14日、『いいとも』「テレフォンショッキング」で黒柳徹子が43分間しゃべり続ける(歴代2位)。2014年にとんねるずに破られるまで長きにわたって最長記録だった。2005年12月16日に再び出演した際、当時を振り返り「私は別に喋りたいと思った訳じゃないのよ」「そしたら横澤さんがコマーシャルの間に『もっと話し続けてください、話し続けてください』って言ってはいなくなるの。だからお話ししてたんですよ」と不満気に弁明。しかし結局この日も約39分(歴代4位)にわたりしゃべり続けていた。後にタモリはこの時の心境を「このまま番組がぶっ壊れるといいな、と思った」と語っている[10]
▼4月2日、『和田アキ子だ文句あっか!』(テレビ朝日)放送。日頃の不平不満をぶちまける番組で、ビートたけしと組んで言いたい放題。
▼4月2日、『いいとも』レギュラーに片岡鶴太郎が加入(~93年3月)。後にタモリの影響で始めた片岡鶴太郎の絵を『いいとも』で紹介。それをたまたま見ていた横尾忠則が絶賛、鶴太郎がその後画家に転身するきっかけに。
▼4月6日、『いいとも』金曜レギュラーに明石家さんまが加入。『笑ってる場合ですよ!』司会陣では初。タモリとさんまの雑談コーナーは「タモリ・さんまの日本一の最低男」「日本一のホラ吹き野郎」「もう大人なんだから」などと名前を変えつつ、レギュラー降板の95年9月まで続く。ふたりは「テレビで最初に“雑談”というものをやったのはこのコーナー」と胸を張る。なお、さんまが番組を降板したのは「タモリンピック」がきっかけ。網をくぐる競技で、「さんまが網にかかった!」とボケに走ったところ、増刊号担当ディレクターから注意された。さんまは「笑いなくなったら個性死んじゃう」と主張してケンカ別れ。
▼4月23日、『いいとも』「テレフォンショッキング」で泰葉が一般人に間違い電話。その後3日間、同コーナーの前に一般人のテレフォンショッキングが放送された。同様の間違い電話は松本伊代がゲストの際にもあり、タモリが「失礼ですがお名前は?」と尋ねると「モリタです」と答え大爆笑となった。さらに「私も森田ですが下のお名前は?」と続けると「ウマノスケです」でまた大爆笑。このモリタウマノスケ氏は年末の特大号に登場し会場を盛り上げた。なおモリタ氏は確認のため番号を途中まで口にしてしまい、その局番の回線が瞬間的にパンクしてしまったという。ちなみに当初、ゲスト本人が次のゲストに電話をかける際に、手の動きが分からないようにする囲みを「TEL(てれ)隠し」と呼んでいた。
▼5月、大地真央の宝塚歌劇70周年記念月組公演「ザ・レビューII―TAKARAZUKA FOREVER―」主題歌『この愛よ永遠に』発売。B面に、タモリ作詞作曲による『タモリさんが作った歌』収録。
▼10月1日、『いいとも』木曜レギュラーだった小堺一機を司会に抜擢し『いただきます』開始。「『いいとも』が終わらず食い込んだりするハプニングがあったらおもしろい」という発想で、当初はアルタから生放送。金曜日はさんまが残ってオープニングトークに参加するのが恒例となった。
▼10月8日、ドラマ『なぜか、ドラキュラ』(日本テレビ)放送開始(~翌年1月7日)。タモリ、民放ドラマ初主演。原案・脚本は松木ひろし。ドラキュラを“吸血病”の患者ととらえた作品で、日光が苦手で貧血気味、気弱な冴えない中年という、らしくないドラキュラ像を演じた。
▼10月21日、「テレビシティー『タモリVSたけし』」(フジテレビ)放送。タモリとたけしを168時間完全密着取材したドキュメント。タモリからたけしへ、たけしからタモリへのコメントや、共通の質問に対する各々の反応などが見どころだった。密着された168時間中、テレビ局にいた時間が106時間、テレビを見た時間が2時間、睡眠が45時間。なお、たけしはそれぞれ96時間、7時間、32時間だった。
▼10月、佐藤製薬「ユンケル黄帝液」のCM放映開始。「疲れがタモレば、ユンケルだ」「ユンケルンバ ガンバルンバ」など数々の名フレーズを残し、2001年まで続く、タモリ中期を代表するシリーズに。
▼12月7日、「朝日ジャーナル」で筑紫哲也と対談(『若者たちの神々 筑紫哲也対論集 Part4』[朝日新聞社]に収録)。「ネクラ・ネアカ」について解説したり、人気を集めていたNHKアナウンサー(当時)の鈴木健二について「悪質」「危険」「信用できない」と批判を展開したりしている。
▼12月22日、映画『愛染恭子の未亡人下宿』公開。監督は山本晋也。タモリは立川談志とともに銭湯の三助役。

1985年(40歳)

▼1月3日、昭和59年度 第13回 「日本放送演芸大賞」特別賞受賞。
▼1月、『いいとも』を正月休暇中(88年までの4年間、休暇をとっていた)、代理で司会をしていたさんまに「もしもし、ニシオカ?」といたずら電話。またビートたけしがゲストの原田芳雄の扮装で乱入(しかしその日のゲストは原田伸郎)。たけしはタモリの写真を持ち出し、さんまに踏ませた。
▼1月15日、吉永小百合と日本ラグビーフットボール選手権大会(国立競技場)観戦。試合後、タモリの愛車のベンツで吉永を送って帰ると、彼女が座った後部シートには「小百合ちゃん御席」と張り紙し、当分のあいだ誰にも座らせなかった。
▼4月3日、『ウォッチング』(NHK)放送開始(~89年3月14日)。タモリ司会。動物・生物などをテーマに専門家をゲストとして招き、トークやVTRを交えながら紹介していく教養番組で、昭和60年度の児童福祉文化賞(放送[テレビ番組])を受賞。
▼5月31日、第1回「東京国際映画祭」(フジテレビ)放送。タモリは明石家さんまとともに司会。「下品な司会」「ふざけている」などのクレームが相次いだという。
▼6月15日、映画『星くず兄弟の伝説』公開。近田春夫の同名スタジオ・アルバムを原案に手塚眞が監督し映画化された。主人公の「スターダスト・ブラザーズ」が『いいとも』の「テレフォンショッキング」に出演するという設定でタモリは本人役で出演。
▼7月8日、『いいとも』「テレフォンショッキング」に戸川京子からの紹介で伊藤つかさが出演。もともとこのコーナーは、当時タモリがファンだった伊藤つかさまで繋げられるかという趣旨で始まった。タモリは伊藤の登場に舞い上がる。
▼7月24日、たこ八郎が海水浴中に心臓麻痺で死去。タモリは弔問で「喜劇の人ですから、最期まで自分で冗談やって死にたかったと思うんですね。たこが海で死んだっていうのは、本望じゃないですか。ねぇ。なんにも悲しくないですよ、なんにも……」と死を悼んだ。
▼8月2日、ドラマ『ぼくたちアダルトKIDS』(フジテレビ)放送。タモリ・間下このみ他出演。
▼9月24日、山藤章二と対談(『対談「笑い」の解体』[講談社]に収録)。この頃からすでに「ダメ出し、やりませんね」と反省しない主義を語っている。
▼10月、『いいとも』レギュラーに関根勤加入。レギュラー期間は28年を超え、最長記録となる。
▼10月、「月刊プレイボーイ」10月号でマイルス・デイビスと対談。マイルスが大好きなタモリは極度に緊張。しかも対談中、マイルスはタモリの顔をほとんど見ず、ずっと手に持った紙に何かを描いていて、タモリは「変わりものだって聞いてたけど、確かに変わってんなあ」と思ったという。描いていたものは絵で、突然「おまえにやる」とプレゼントされる。そして対談の最後にタモリのトランペットを見たマイルスは「これはお前のか? お前も吹くのか?」と尋ね、「そう。これにサインをしてほしい」と言うと、「今日は良いインタビューだった。お前はとてもオレの音楽をよく聞いてくれてる」と言い、サインを書いたという。「それが今でも宝物なんだよ」[11]。ちなみにタモリが他にサインをもらったのは吉永小百合、アイルトン・セナ、スティーヴィー・ワンダー、ダスティン・ホフマンなど。
▼10月5日、『今夜は最高!』で久本雅美・柴田理恵・渡辺信子がレギュラーに。3人はテレビ初出演。
▼12月、「オール讀物」創刊55周年記念増刊号『ビッグトーク』で、村松友視と対談。「タモリはどこから来たか」と題し、タモリの家族や子供時代の話を語っている。
▼朝日新聞「TVラジオアラカルト」欄連載コラム「ほっとトーク」でインタビュー(『ザ・テレビ人間』[朝日新聞社]に収録)。
▼ホンダ「スカッシュ」のCM出演。

(つづく)
―#3 1981年(36歳)~1985年(40歳)―



*次回:2014年4月3日(木)掲載

2014/03/27 更新












[個人ブログ「てれびのスキマ」での『タモリ学』関連エントリ]

タモリ、又吉、東京ポッド、マツコ……それぞれの「東京」論
2013年10月21日の『タモリ学』
タモリと吉永小百合が逢った日
タモリと猫と犬
「『大タモリ年表』第2弾公開」 タモリのデビューと『徹子の部屋』
「あれは生命の最大の肯定」タモリが絶賛した小沢健二
【「メルマ旬報」芸人ミステリーズ・再録】「幻のタモリ作品を追う。」
「大タモリ年表」とは何か?
『COMIC CUE』という祭り
3月26日『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』発売決定!





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『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)

タモリをもっと知りたくて。

デビュー時から現在までの、タモリの様々な発言やエピソードを丹念に読み解き、その特異性と唯一無二の魅力に迫る。 親しみ深くて謎の多い、孤高の男の実像とは。

タモリは過去や未来にこだわることの不毛さに対し、若い時から(あるいは幼少時から)問題意識を持ち、考えぬいた末に「現状を肯定する」という生き方を選択した。いかに執着を捨て、刹那的に生きることを選べるか。その実践として、「タモリ」がある。(本文より)

イラスト:小田 扉


戸部田 誠(てれびのスキマ)(とべたまことてれびのすきま)

78年生まれ、いわき市在住のテレビっ子。お笑い、格闘技、ドラマ好き。『週刊SPA!』「日刊サイゾー」「水道橋博士のメルマ旬報」で連載中。『splash!!』『TVBros.』などに寄稿。近著に『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか~絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コアマガジン)がある。
個人ブログ「てれびのスキマ」
http://littleboy.hatenablog.com/

[作者より]
3年近くかかってようやく『タモリ学』完成しました。精魂込めて書きました。正直言って自信作です! 是非、手にとって読んでみてください!

 
 



【出典一覧】

[1]『ぴーぷる最前線 タモリ』武市好古 編/福武書店(83)
[2]『変人よ我に返れ』髙平哲郎/PHP研究所(83)
[3]『タモリ倶楽部』テレビ朝日(13・7・26)
[4]「タモリはどう語られてきたか」『エキサイトレビュー』近藤正高
[5]『これでいいのだ。 赤塚不二夫対談集』赤塚不二夫/メディアファクトリー(00)
[6]『今夜は最高な日々』髙平哲郎/新潮社(10)
[7]『笑っていいとも!』フジテレビ(14・3・11)
[8]『筒井康隆スピーキング 対談・インタヴュー集成』筒井康隆/出帆新社(96)
[9]『上柳昌彦 ごごばん!』ニッポン放送(13・10・22)
[10]『FNS27時間テレビ』フジテレビ(12・7・21)
[11]『笑っていいとも!』フジテレビ(08・4・21)

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