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待ったなしの喫緊の議論が必要であるはずの「社会保障」。そこには切実なニーズがあるにもかかわらず、国の膨大な借金への返済が優先され、またぞろ生存の保障すら、あとまわしとされるのだろうか。さまざまな意見の対立を超えるべく、着実な〈闘争〉を呼びかける。





《第13回》 「社会保障」と「財源」


●「社会保障」というテーマ

熊谷(以下同) 昨年2012年の4月より計6回にわたり、一橋大学は佐野書院において、私、熊谷の連続講演に加え、さまざまなゲストの方を迎えてシンポジウムを行ってきました。当初の予定であった身体障害者運動、介助者運動、発達障害問題、依存症の自助活動、そして「自己決定」と「自己責任」などを各回のテーマとし、さらに、自立/依存、こころ/からだの二項対立を問い直すことによって逆照射される社会の問題について、毎回長時間にわたって議論する刺激的な試みであったと思います。
 本日、イレギュラーなこの小さな集まりにいらしていただいたみなさんもご存じのように、佐野書院でのその連続シリーズ、当初は全7回を予定していて、最後の回は「社会保障」が予定テーマでした。が、なかなかこの最後の回が実現しない(笑)。なぜかということは今日お話しする内容からもご想像いただけるかと思いますが、多くの人にとってとりわけ関心のあるはずのテーマであると同時に、さまざまなレベルで、とりわけ簡単にはいかないテーマであるからなのです。もちろんこの連続シリーズの回のテーマすべてが、そう簡単に答えの出ないものばかりだったわけですけれども。
 社会保障を考えるということの困難は、財源問題を考えるということの困難を表しています。財源問題は、これまでの障害者運動の中では、自分たちが考える問題ではない、関係のない問題なのだと捉えられてきた部分がありました。そしてその問題に直面した際には、あきらめるか、情念を押し通して終わるか、そのどちらかだった。しかしこれからは、そういうわけにはいかないのだ、と私は考えています。


●「生存の保障」という問題

 いままでの連続講演とシンポジウムで、現在の社会がもつ大きな問題点を、私なりに、またさまざまなゲストの方たちとの議論の中でさまざまな方向から繰り返し考えてきたことは、先ほどお伝えしたとおりです。さて、ここで改めてそれらのことをざっくりまとめてみると、以下の三点に要約されてくるかと思います。
 ひとつ目は、関係のレベルで考えなくてはならないことを個人化してしまうというところに生じる問題です。シンポジウムでは、「社会性の障害」とされる、発達障害をめぐる問題を取り上げました。哲学者の國分功一郎先生からもご指摘を受けたように、この問題は、まさに現在の社会の性質をきわめてシャープに逆照射するものだと言ってよいと思います。
 つぎに、依存先の分散の必要性という問題を、依存症の問題をふまえつつ取り上げました。どういうことかというと、効率化ばかりを目指すと、短期的に一番効率がよいように見えるルートだけが唯一、生き残るようになるわけですが、しかし、平時はそれでいいのだけれども、有事になったときにそのシステムの弱さが露呈するのだ、と。たとえば、震災のときの私自身の例としてもお話ししたように、唯一のルートであるエレベーターが止まってしまえば、はいそれまでよ、となる。そういった事態を避けるためにも、効率化と同時に冗長さ、あるいは短期的な最適化だけでなく長期的な最適化を視野に入れて、ひとつの目的を達するために複数の一見無駄な経路をどう確保するのかという問題。それが二つ目です。
 そして三つ目に、主に身体障害者の問題を例に、生活保障という問題を取り上げました。基本的には働けない人が多い、あるいは健常者と同じようには働くことができない。そうすると、いきおい生きられなくなってしまうというか、生存まで脅かされるという事態に陥ることが少なくない。働けないということが生きられないことにつながってしまっているという問題です。

 以上三つの問題は、きわめて喫緊の問題であると私は考えています。とりわけ、最後の生存保障については、もっともプライオリティーの高いものとしてあります。なぜなら、働いているから生きていいんだ、と、言い換えれば、「働かざる者食うべからず」といった傾向が、社会の中で強まってきているのを日々、感じるからなのです。生活保護の件に関してもそうですし、人工呼吸器の問題に通じる問題でもありますけれども、生きる権利として「働く」ということが条件になってしまっている。その状況をまず何とかしなくてはならないと感じています。生きるということと働くということをイコールで結んではならない、ということです。


●再分配と社会保障

 では、そのためにはどうしたらいいのかといえば、いってみれば非常に簡単なことです。つまり、お金をより多く稼いでいる人、つまり自分が生きるのに必要なお金以上に、それよりはるかに稼いでいる人のところから、お金が足りない人、生存するための最低限のお金が足りない人のところにお金を動かせばいいのです。再分配です。そうすることではじめて、働くことと生きることが分離したと言える。
 そして現在のところ、そのようなお金の動かし方ができる唯一の権利をもっているのは、ご存じのとおり、国だけなんですね。そうなると、国の社会保障制度をどうすべきかと考えざるをえなくなります。
 いうまでもなく、社会保障費というのは、国債という借金以外で考えるならば、大まかに言えば税金によって捻出されるわけです。また税金の総額というのは、これも大まかに言うと、GDPすなわち日本の全体の稼ぎに税率を掛けたもので表される、と。つまり、「GDP×税率」が社会保障の制度に使えるマックスのお金ということになるわけですが、それをどう高くキープするかというところが問題になるわけです。
 そうなるとつぎには、このときのGDPと税率とのあいだの関係はどうなってるのかということが気になるわけです。GDPが上がれば税率が上がるという関係にあるならば、これは願ったり叶ったりですよね。両方いっぺんに増えれば、総額も増えるということになりますから。しかしもしGDPが増えて税率が減るという関係があったりとか、逆に税率が上がるとGDPが下がるという関係にあるとすると、話は厄介になる。ですから、税率とGDPのあいだにどんな関係があるのかということをまずきっちり考えることがポイントになろうかと思うのですが、経済学の専門家の中でも意見がわかれるようなのです。


●税率が先か、GOPが先か

 たとえば、「税率を上げると人々の安心感が増して『私の老後に支給される社会保障が充実するだろう』と考え、安心感が醸成する、そしてその結果、老後のためにこれまで貯金していたお金を使うようになり、GDPも上がる」というロジックを立てている専門家もいます。慶応大学の権丈善一さんなどが代表的で、私も権丈さんの書かれたものやご講演などで、多くを学ばせていただきました。このロジックがもし本当だったら素晴らしい、と私は思いました。「税金を上げたらGDPもゆくゆくは上がるので、いいことだな」ということです。だから、それが本当なら、私なんてすぐさまそれに飛びつきたい衝動が抑えられなかった(笑)。
 しかしその後、その考え方にみながみな共感するわけではないということを知りました。GDPと税率は、長期的に見れば、一方が上がれば他方も上がる関係にあるかもしれないが、税率を上げたらGDPが上がるというわけではなく、「GDPが上がると税率が上げることができるようになるのだ」という立場です。つまり先ほどの権丈さんの考え方とは逆に、「税率のほうを先に上げるんじゃなくて、GDPのほうを先に上げるのが大事なんだ」と言うわけです。税率を上げるのが先か、GOPを上げるのが先か。私が素人であることも大いに関係しているかと思いますが、経済学者と言われる人たちのあいだでは、そのような真逆の考え方が対立しているように、私には見えます。


●リフレーションのシナリオ

 私としては、要は、社会保障費は上がって欲しいわけで、当然下がってはほしくない。ということは、その両方の意見に目配りしないといけないんだな、と思うわけです。しかしGDPを上げるのが先だという立場に対しては、「GDPを上げるって、どうやって?」と素朴に思ったりするわけです。稼ぎをそんな簡単に上げられる方法があったら、とっくに上げてるだろ(笑)、みたいな感じが私などはしてしまうのですが、そのための方法として「リフレーション」という金融政策を提唱している人がいて、現政権もそれを推進している。
 ざっくりとではありますが、そのことについて少し私なりの理解を説明してみたいと思います。この辺りは専門外なので、理解に誤りがある場合には識者からの指摘を待ちたいと思います。
 物価、つまり物の価格というものがありますよね。たとえば、リンゴが何円とか、ミカンが何円とか。この物価というのは何なのかというと、「物とお金を並べたときにどっちのほうをみんな欲しがるか」ということを表しているものなわけです。物価が高いということはどういうことかというと、「お金より物、あるいはサービスがいいな」とみんなが思っている状態を表す。逆に、物価が低いということは何を表しているかといえば、「お金のほうがいいや」と思っている状態。このように、物やサービスとお金を並べたときに、みんなはどちらを欲しがる状況にあるのかを示すのが物価というものであるわけですけれども、現状がどうなっているかといえば、物価が下がっている。つまり、「デフレ」という状態にあると。 つまり、物やサービスよりも、お金が欲しいわけなのですね。そうなると、物を作っても安く買い叩かれる、物価が下がっても従業員の給料や借金の額は物価に連動して下がってはくれない――「下方硬直性」がある――ので、民間企業は物を作らなくなり、どんどん経済が停滞していってしまう。
 このように、人々が、物やサービスよりも、お金に魅力を感じすぎているときに、貯金したときの利子率が下がれば、お金の魅力は落ちるので、デフレの状態は修正されます。しかし、利子というのはゼロ以下にならないというお約束があります。現状では、利子率は目いっぱいまで下げられていて、もうそれ以上下げられない状態にあるので、利子率の調整だけではデフレが修正できないというわけです。流動性の罠というやつですね。となったときに、じゃあ、どうするかというアイディアがリフレ派という人たちから出てきたというわけです。
 リフレーションの理屈というのは、つぎのようなものです。ある額のお金を持っているときに、金融政策によって利子率を調節することで、状況を是正することが可能です。それを貯金(もしくは国債購入)するか、それともモノを購入(もしくは投資)するのにあてるのかを、人々はどうやって決めるのでしょうか。モノの価値が、来年何%上昇するか、という人々の予想のことを「期待インフレ率」といいますが、この数値と、貯金したときに来年何%の利子がつくかという「名目利子率」とを比較して、前者のほうが高ければ、人々はモノを買うはずです。つまり人々は、名目利子率だけではなく、「名目利子率-期待インフレ率=実質利子率」をみて、モノにするかお金にするかを決めているわけです。
 先ほども述べたように名目利子率はゼロ以下にはできないのですが、期待インフレ率を上げることによって、実質利子率はマイナスにもっていけるので、流動性の罠を脱出できるというのが、リフレーションの考え方です。つまり「将来、物の価格がきっと上がるだろう」というふうに人々が期待するようにすることが重要なのだ、というわけです。
 整理すると、①物価が上がると信じると→②実質利子率が下がる→③人々がモノを買うようになる→④実際に物価が上がる、というロジックですね。そして、高止まりした人件費や負債を超えて物価が上昇した暁には、企業の生産活動も復活してきて、経済が回復するというシナリオです。


●誰の期待を上げるのか?

 ここでの問題は、①の段階、すなわち、人々の期待を上げるということが本当にできるんだろうか、ということだと思います。この一点に関して、リフレーション派の専門家の方と、それとは異なる考えを持つ人たちと、ともにいらしていただいて、ぜひディスカッションしていただきたい、そういった場を、連続シンポジウムの最終回というかたちでつくりたい。そして心ゆくまで、それぞれの立場の人に質問し、納得したいと、じつはずっと考えていたのです。
 しかしこれはたいへんむずかしい。私もこのあいだ、そのための準備という意味もあって、何人かの専門家の方の話を個人的に伺ったりしてきたのですが、やはりいまだに、人々の期待を変えるということが可能なのか、よくわからないでいる部分も残っています。しかし、何人かの専門の方とお話しさせていただいた中で、特に説得されたのが、「リフレーションだけでなく、再分配によってGDPが上がるというロジックだって、じつは期待への介入という要素が入っているのですよ」という意見でした。「再分配によって、人々が不安じゃなくなるっていう保証なんてありますか。税金を高くしたときに人々が安心感を持つので、それでお金を使うようになるだろう、という考え方なわけですけれど、それだって期待なわけでしょう?」と。
 ふたつの考え方の違いはなんなのかと言うと、誰の期待を変えるのかということです。権丈さんが思い描いているのは、主に高齢者なんですね。他方、リフレ派の人たちが思い描いているのは、毎日株価とか為替に目を光らせているような人たちなんです。その人たちの期待を変えればいいと。「国民全体の期待を変えたり、おじいちゃん・おばあちゃんの期待を変えなくても、マーケットの動向に目を光らせ続けているトレーダーの期待さえ変えれば動くんだ」というふうに言うのが、リフレ派の考えなわけです。
 彼らの考えによると、おじいちゃん・おばあちゃんの期待を変えるのに比べて、トレーダーの期待を操作するのはより簡単なのだということになる。じっさい、安倍首相がちょっと何かを言ったら、すぐ翌日には株価が変わったり、為替が変わったりするわけでしょう。そのように非常に鋭敏に反応してくれるから、操作しやすい。だから、「再分配によってGDPが上昇する」という立場も、「リフレーションによってGDPが上昇し、再分配も上昇する」という立場も、どちらも期待に頼っているという意味ではどっこいなんだけれども、「リフレーションのほうが確実に期待を変えられるんだ」という考えは、なるほどと思ったりするわけです。


●再分配VS財政規律

 みなさんもご存じのように、安部政権になって、リフレ政策が採用された。そしてたしかにリフレ派の予想どおりの変化をしているようにも私にも見えます。けれどもGDP×税率が上がったあと、ちゃんとそれが社会保障に回るのかという点については、私などは毎日ハラハラしながら見ているわけです。
 しかし、誰に聞いてもそれはなかなか難しいんじゃないかと言う。税収が上がったところで、それは国の借金の返済に使われるだろうと。現在、借金は一千兆円あるわけだから、当然そっちが先だろうと。これは恐怖です。なぜならこちらは生存がかかっているわけですから。
 国の借金についての考え方も、専門家によってまちまちなようです。モノの購入や投資に魅力がなくなり、貯金しても利子がつかないということで、安全な資産としての日本国債の魅力が実態とは不釣り合いに高まっています。リフレーションがうまくいって、モノの魅力が高まったら、人々は一斉に国債から物へと鞍替えし、国債の価格が暴落するのではないかという人もいます。一方では、借金の総額ではなく、国債をだれが保有しているのかという点がより重要で、日本国内の人々によってそのほとんどが保有されている国債は大丈夫だという意見や、借金の額をきめる要因の、急激で予測不可能な変化さえなければ総額が大きくても大丈夫だという意見や、財政が破たんしても大丈夫という意見まであります。この問題についても、しっかりとした議論を、このシンポジウムの中で行いたいと、当初考えていました。


●依存先の分散ネットワークとしての市場と、そこへのアクセシビリティ

 はじめに挙げた三つのポイントの内のふたつ目である、「依存先の分散」の話をしたときに、松井彰彦さんという経済学者から「市場とはまさに、依存先の分散を実装したネットワークといえる」とのご指摘をいただいたことがありました。以下は、私との議論を受けて、松井氏が書かれた文章の一部を引用したものです。


『市場の特質は――よかれ悪しかれ――そのしがらみのなさにあると言ってよい。もちろん、市場経済であっても、私たちは周りを必要としている。スーパーマーケットやコンビニエンス・ストアがなければ三度の飯も満足に食べられない。バスや電車がなければ通勤もできない。店側も同じだ。お客が来なければ、モノは売れない。モノが売れなければ困ってしまうという点で店も客に依存しているのだ。しかし、市場では特定の誰かと強い依存関係に陥ることがない。A店でモノが買えなくてもB店に移れる。Cという客に嫌われてもDという客がモノを買ってくれれば店は商売になるのだ。』
                                       (朝日新聞DIGITAL「読み解き経済」より)

 市場が依存先の分散を実装したネットワークであるとするなら、障害の問題を、市場へのアクセシビリティの問題としても捉える必要性が出てくる、といえるでしょう。われわれ障害者は、そもそも市場というものに参加できているのでしょうか。
 思い起こせば、連続講演でも何度かお話ししたように、身体障害者運動においても、介助関係を市場に開いていったという流れが事実、あったわけです。気のおけない家族とかではなく、見ず知らずの人をお金で買う、というレトリックだったわけですね。そしてそこには「いい市場」が生まれてくる。
 一方で近年は、障害者だけでなく、介助者の依存先が集中してしまっているという問題が、介助者運動の中から指摘され始めています。これについては、のちほど触れることにします。


●障害の種類を超えて

 話が前後しますけれども、社会保障に関しては、ともかくもまず、財政が破たんしない限りにおいての考えられる限りの方法をとっていただきたいと私は強く思うわけです。われわれには、社会保障の財源がどうしても必要です。しかし、ゆっくり考えていけばよいというわけにもいかない。生存というニーズは待ったなしのものであり、ニーズがあるところに保障が下りてくるまでに、いったいどのくらい待てばよいのかという、時間感覚がクリティカルです。2、3年がひとつの単位だろうと教えてくれる方もいました。しかしそれは本当なのか。自分が生きているうちにやってくるのか否か。そういう切実な焦りの気持ちがあります。
 だからこそ、まるでドクターショッピングをするときのように、経済学の学説に翻弄されてしまうのですね。「やればいいというものではない。インフレターゲットをするとリスクがある」「ハイパーインフレになるぞ」「国債が破綻するのだ」「ソブリンリスクが高まる。財政破綻する」など、ほうぼうから矛盾した意見も飛んできます。
 われわれもさらに学ばなくてはいけないのですが、それでも、誇張ではない方法でわかりやすく説明してくれる経済学者や財政の専門家がどうしても必要なのです。自戒を込めて言うわけですが、学者や専門家というのは、どうしても自説に引き寄せて話をしてしまいます。私はこの間、幾人かの方の学説に接したり、直接お話を伺ったりする機会をもつことができて、そこからからたくさんのことを学ばせていただいたことは事実ですが、本当のところ、当事者にとっては何を、どちらを信じればいいのかわからなくなることがよくあるのです。メニューを提示して、さあどちらを信じるか、という関係ではなく、いまだわかっていない部分も含めて知識を共有し、一緒に考え、不確実性を込みで責任を持って具体案を出す、というコミュニケーションと共同作業の必要性を強く感じずにはいられません。どうかぜひ、知識と知恵を貸していただきたい。
 と同時に、すべてのマイノリティーが連帯できる場所を確保することも急務だと思っています。もちろん内部的な調整は必要なはずですが、自分としては障害の種類を超えて、かつ専門家の知見を借りながら、みなで財源問題を考えていきたいのです。そしてそのためのシンポジウムをそう遠くないうちにぜひ実現したい。そう考えています。



(2013年5月4日/イースト・プレス会議室にて)

*次回:2013年8月15日(木)掲載
2013/6/6 更新

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『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎・著/朝日出版社)
パスカルの断章「部屋にじっとしていられないから、人間は不幸を招く」を皮切りに、さまざまな哲学的根拠を横断しながら、古今東西、老若男女、万人にとっての切実なリアリティである「退屈さ」の諸問題へと迫る、瞠目の1冊。







『リハビリの夜』(熊谷晋一郎/シリーズ「ケアをひらく」医学書院)
審査員の絶賛のうちに「新潮ドキュメント賞」受賞!
官能的な反リハビリ論が、障害VS健常というフレームそのものを一新した画期的な1冊!







『つながりの作法――同じでもなく 違うでもなく』(熊谷晋一郎・綾屋紗月/NHK出版生活人新書)
「つながらないさみしさ」「つながりすぎる苦しみ」……自閉症者と脳性マヒというそれぞれの障害によって、世界や他者との「つながり」に困難を抱えてきたふたりが、人と人とが「互いの違いを認めたうえでなお、どのようにしてつながりうるのか」という普遍的テーマに挑む。







『発達障害当事者研究――ゆっくりていねいにつながりたい』(熊谷晋一郎・綾屋紗月/シリーズ「ケアをひらく」医学書院)
「感覚過敏」「こだわりが強い」「扱いにくい」……ネガティブな視線で注目を浴びる「アスペルガー症候群」当事者の綾屋紗月とともに、その世界の驚きに満ちた豊かさを記述。





〈論文掲載〉
「現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線」

「現代思想2010年10月号 特集=臨床現象学 精神医学・リハビリテーション・看護ケア」

「現代思想2010年12月号 特集=新しい依存症のかたち 「回復」へのプログラム」 ほか

熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)

1977年生まれ。脳性まひの電動車椅子ユーザー。小児科医、東京大学先端科学研究センター特任講師。東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」共同研究員。著書に『リハビリの夜』(新潮ドキュメント賞受賞)、綾屋紗月氏との共著に『発達障害当事者研究』(ともに医学書院)、『つながりの作法――同じでも違うでもなく』(NHK出版)がある。
ブログURL:http://ayayamoon.blog77.fc2.com/

熊谷晋一郎
写真:多比良孝司(共同通信社)

熊谷晋一郎さん連続講演+討議のご案内
於:一橋大学 佐野書院
(国立駅徒歩12分)

2012年4月より、月に一度のペースで行っている連続講演+シンポジウムのお知らせです。身体障害者運動、介助者運動、発達障害問題、依存症の自助活動、尊厳死問題などを起点にして、 自立/依存、こころ/からだの二項対立を問い直しつつ、異なる領域の問題を横断したときに逆照射される社会の問題について、じっくりと考えていこうとするものです。毎回前半には、東京大学先端技術研究所特任講師の熊谷晋一郎さんに2時間ほどの講演をお願いし、そののちにゲストの方との対談もしくはシンポジウムを2時間ほど、そして終了時間にとらわれることなく、聴講者の方々からのご意見や討議のお時間も設定させていただきたいと思っております。どうぞご参加ください。

以下、各回のテーマとゲストの方たちをお知らせいたします。日時以外、若干の変更がある場合もあります。第7回の日程については未定です。下記の問い合わせ先にメールをいただければ、新たなご案内をそのつど差し上げて参ります。どうぞよろしくお願いいたします。

* * * * * *

〇第1回:4月29日(日)
他人の身体をつかうということ
〈終了〉
渡邊琢さん+岩橋誠治さん

〇第2回:5月13日(日)
「発達障害」ブーム再考
〈終了〉
斎藤環さん+内海健さん+綾屋紗月さん

〇第3回:6月10日(日)
「ゆらぎ」と「痛み」、「依存」と「自立」
〈終了〉
松本俊彦さん+上岡陽江さん

〇第4回:7月1日(日)
自己決定をつきつけてくる身体
〈終了〉
國分功一郎さん
※この日のみ午前10時より。ご注意ください。

〇第5回:8月19日(日)
「親心」の活用
〈終了〉
岡部耕典さん

〇第6回:11月11日(日)
発達障害とサリエントな世界秩序
〈終了〉
國分功一郎さん

〇第7回:2013年春
社会保障と包摂型社会

湯浅誠さん、大野更紗さんほか
(日時決定次第記載します)



■各回、午後2時~7時頃まで。
■会場地図
佐野書院案内図(pdf)
■問い合わせ(主催)
(株)イースト・プレス
担当:清水檀
shimizu@eastpress.co.jp
(参加費500円前後。なるべくメールにて事前予約をお願いいたします)