落雷と祝福

副題は「好き」に生かされる短歌とエッセイ。
歌人・岡本真帆が愛するものをお題にした連作短歌とエッセイをお送りします。
第4回のテーマは、漫画「ハチミツとクローバー」です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きれいな缶に詰まったきらきら

『ハチミツとクローバー』、通称ハチクロで一番好きなキャラクターは誰? と聞かれたら、わたしは迷いなく森田さんだと答える。
 美術大学に通う生徒と教員の日々を描く青春群像劇で、森田さんはとくべつ破天荒だ。キャンパスに嵐を巻き起こし、なかなか卒業しようとしない問題ばかりの四年生。なのに、何かを作らせたり描かせたりしたらピカイチで、醤油でさらりと芸術的な龍の絵を描いてしまう。森田忍。変人扱いされている一方で、底抜けに明るく、時には創作に迷う はぐちゃんの葛藤を見抜いたり、恋に悩み沈む あゆをひっぱりあげたりする。憎たらしいけど愛されている才能の人。かっこよかった。初めてこの作品を読んだときから、森田さんが一番好きだ。
 森田さんは、ハチクロの主人公・竹本くんと対照的な存在として描かれる。
 なんとなく入った美大で、自分のやりたいこと・自信が持てるものが見つけられない竹本くんには、森田さんは類い稀なるセンスを持つ「すごい人」として映る。そして竹本くんが密かに想いを寄せる はぐちゃんもまた、森田さんの才能に圧倒され、森田さんと はぐちゃんは天才同士惹かれ合っていく。
 ジャージでビーサンの森田さんがどうしてモテるのかと、同じ寮に住む男たちの間で議論が交わされるシーンがある。メインの登場人物のなかで唯一の大人で、教員の修ちゃん(花本修一)が「他人の言葉にフリ回されず我が道を行っているからじゃないか?」と答える。鋭い。そうだ、その通りなのだ。森田さんはほとんどブレない。そこがいい。物語のクライマックスで一瞬だけ、彼は進むべき道を間違えそうになるのだが、森田さんは作品を通してほとんど変化しない。
 「わからん…何でわざわざ探す必要があるんだ? 自分は自分じゃないのか?」
 自分探しに出た竹本くんについて、森田さんははてなマークをたくさん浮かべながら疑問を口にする。いつもふざけている森田さんが珍しく真面目に言うこの一言が、二人の違いを表している。この場に竹本くんはいないが、本人が聞いたらショックを受けそうな、純粋で残酷な疑問だ。

 早くから自分のやりたいことや進みたい道が分かっている人と、分からずに途方に暮れる人がいる。両者の間には溝がある。森田さんには竹本くんの苦悩が分からない。竹本くんが、森田さんの孤独を本当の意味では理解できないように。
 わたしには竹本くんの焦りがわかる。大学に入った途端、それまで敷かれていた人生のレールが急になくなったような気がした。小学校を卒業したら中学校があって、高校を卒業したら大学に行く。越えるべきイベントがハードル競走のようにいくつかあって、受験勉強という一大イベントをなんとか終えたら、その先にはみんなと同じレールはなかった。突然、お前は何をしたいのか、お前には何ができるのか? と真っ暗な夜道に突き出され、自分だけの獣道を孤独に進む時間が始まったような気がした。竹本くんを見ていると、あの頃の自分を思い出す。何者かになりたいけれど、何者でもない自分。何が出来るか分からない自分。やりたいことが見つからないのは悪いことじゃない。でも、コンパスが示す方向が見えないと心細い。一人暮らしの家に帰る夕暮れの商店街で、どうしようもなく寂しくて泣きたくなった日の、涼しい風のことを思い出す。

 竹本くんの一人旅に、「雨の終わる場所」を目撃する場面がある。そのシーンとその後辿り着く最北端の描写が印象的で、わたしも自分の目で宗谷岬を見てみたいと、大学ではユースホステリング部に入った。それは自分たちで旅行を計画し、夏と春の長期休みを利用して旅に出る体育会系の部活動だった。大学一年生の夏休み、先輩・同期の二人と一緒に、苫小牧から宗谷岬を目指す徒歩縦断の旅をした。ルートの途中には歩いて通れないエリアもあり、ちょこちょこ電車も使ったが、道中地元の人から野菜をもらったり、公園で野宿をしたりと、今ではなかなかできないような経験をした。辿り着いた宗谷岬は曇っていたけれど、静かで明るかった。竹本くんの物語と自分の物語が確かに繋がったような気がした。自分のお金で、日本の最果てまで初めて行った夏。記念碑の前、満面の笑みで写真を撮った。

 ハチクロを読むと、竹本くんに突き動かされたあの頃の自分の気持ちが蘇る。あれから十四年が経ち、気がつけばわたしは竹本くんの年齢も、森田さんの年齢も追い越していて、修ちゃんに近い歳になっていた。竹本くんやあゆ、はぐちゃんに感情移入していたあの頃とは少し違って、今度は、竹本くんたちを見守る修ちゃんのような気持ちで、彼らを見ている。そして、あの頃の自分を見つめている。
『ハチミツとクローバー』を読んだときの気持ちは、宝物の入ったきれいな缶を開けたときの気持ちに似ている。嬉しく、楽しく、そしてちょっと懐かしい。登場人物は全員片想いで不器用で、いろんなことに悩んでいる。その苦しさは、渦中にいたら辛くて苦々しいものだけれど、いつでも経験できるものではない。それをわたしが知っているということは、わたしがもうとっくに大人になってしまったということなのだろう。彼らはみんな人生の選択に迷っているけれど、一人一人、自分の心が本当は何を求めているのかを分かっている。それがいい。だから竹本くんたちが眩しく映るし、どうしようもなく愛しく思えるのだ。
 昔ハチクロを読んでいたというあなたも、どうかもう一度ハチクロを読み返してみてほしい。そして好きなキャラクターについての話をしよう。そして、あれから見える景色がどう変わったかの話も聞かせてほしい。

 

≪作品紹介≫

ハチミツとクローバー

羽海野チカによる日本の漫画作品。2000~2006年『CUTiE Comic』(宝島社)ほかで連載。「ハチクロ」と略される。テレビアニメ、実写映画、テレビドラマ化された。美術大学に通う大学生たちの叶わぬ恋や人生に迷う群像劇。アニメ版キャッチコピーは「全員片思い・逆走ラブストーリー」

https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=4-08-865079-4

 

2023.1.26更新

 

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次回予告

2月中の更新を予定しています。次回もお楽しみに!

単行本情報

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著:岡本真帆
発行:ナナロク社
定価:(本体1700円+税)
 

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著者プロフィール

岡本真帆

一九八九年生まれ。高知県、四万十川のほとりで育つ。未来短歌会「陸から海へ」出身。

Twitter: @mhpokmt

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  • 岡本真帆(おかもと・まほ)

    一九八九年生まれ。高知県、四万十川のほとりで育つ。未来短歌会「陸から海へ」出身。第一歌集『水上バス浅草行き』(ナナロク社)
    Twitter:@mhpokmt