/* 人気絶頂の最中に突如姿を消したひとりの芸人、ハウス加賀谷。
1999年、お笑いコンビ「松本ハウス」は加賀谷の統合失調症の悪化により活動休止を余儀なくされた。
それから10年――コンビ復活までの軌跡が、相方・松本キックの視点を交えていま明かされる。
8月7日(水)に刊行となる新刊『統合失調症がやってきた』より、一部を抜粋して先行公開します!
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◎著者・ハウス加賀谷+松本キックが生出演!!
2013年10月21日(月)21時より、『統合失調症がやってきた』
スペシャル番組がニコ生で放送決定!
著者のハウス加賀谷、松本キックによる執筆秘話の数々、
出版後の反響、統合失調症に関する講演会の話、みなさまから頂いたコメントなど、
様々な視点から『統合失調症がやってきた』を紐解きます。
また、視聴者からの質問の受付も予定しています。
ゲストは、松本ハウスの過去と現在を知る芸人、金谷ヒデユキと三平×2。
ニコニコチャンネル「ニコジョッキー」にて生配信します!
http://ch.nicovideo.jp/nicojockey
スペシャル番組がニコ生で放送決定!
著者のハウス加賀谷、松本キックによる執筆秘話の数々、
出版後の反響、統合失調症に関する講演会の話、みなさまから頂いたコメントなど、
様々な視点から『統合失調症がやってきた』を紐解きます。
また、視聴者からの質問の受付も予定しています。
ゲストは、松本ハウスの過去と現在を知る芸人、金谷ヒデユキと三平×2。
ニコニコチャンネル「ニコジョッキー」にて生配信します!
http://ch.nicovideo.jp/nicojockey
ごあいさつ
松本キックです。
出版して2ヵ月半が経ち、様々なシーンで反響を頂いています。
統合失調症の当事者の方、ご家族、ご友人、多くの医療関係者の皆様から
「共感を得た」という言葉を頂きます。
また、統合失調症という精神疾患をご存知なかった方からは
「知るきっかけとなった」「理解につながった」など、
感謝の言葉が伝わってきます。
『統合失調症がやってきた』は、もちろん啓蒙という側面も持っています。
精神疾患の理解を広める役割です。
しかし、他の側面も持ち合わせています。
読み物としての面白さです。
人が崩れ、再生していく様をありのままに書かせて頂きました。
むき出しのハウス加賀谷を、松本キックを、
読み手の皆さんにぶつけさせて頂きました。
「感動した」「涙した」「笑った」
感動させようなんて考えてもいませんでした。
泣く人がいるなんて思ってもみませんでした。
笑わそうと、少しだけ案じました。
松本ハウスをそのまま受け止めて頂いてありがたいかぎりです。
感謝の言葉しか出てきません。
少し心が疲れたなと思ったら、読んでみて下さい。
闇は心の中に潜んでいますが、闇を照らす光も心の奥に隠されています。
人は、どちらも使うことができるのです。
1999年の冬の日。松本キックは、うつむく相方、ハウス加賀谷の言葉を待っていた。
あの時のこと――松本キックから見て
一九九九年、十二月末。
松本ハウス結成から八年。
ハウス加賀谷は、突如としてテレビの世界から姿を消した。
殺風景な稽古場に、長机とパイプ椅子。母親の隣に座った加賀谷が、俺の前でうつむいている。事務所を辞めるという報告は受けたが、本人の気持ちはまだ聞けていない。
今後、どうしていきたいのか。俺にどうしてほしいのか。
話せるものなら話してほしかった。
俺は黙って、加賀谷の言葉を待つことにした。
静寂に包まれた冷たい空間、刻まれていく無情な時。エアコンの吐き出す温かい風が「サー」という音を伴い、頬をなでていく。
加賀谷は言葉を持っていなかった。
うつむいたまま動かなかった。
病状悪化は想像以上に深刻だった。
あの時の加賀谷に気持ちを求めるのは酷だった。相方の俺と目を合わせることもできず、ただそこに居ることに、必死で耐えているようにも見えた。
「……すみませんでした……」
加賀谷から出た、つぶやきとも、うめきともとれる、かすれた低い声。これが、あんなにたくさんの笑いをとってきた人間の声と同じものなのか。
もうこれ以上は無理だろう。話し合いとしても、芸人としても、だ。
そう判断するしかなかった。
少しでもいいから良くなってくれ。いつか笑って会えればそれでいい、元気な姿を見せてくれれば何もいらない。そう思った。
母親と席を立った加賀谷を、俺はドアまで見送った。これが最後の対面になるかもしれないのに、お互いにかけ合う言葉はない。ドラマのような感涙の惜別ではなかった。
ドアが開き、外から冷たい空気が流れ込んできた。そういえば、厳しい寒波が来ると天気予報が言っていた。
加賀谷は母親に連れられ、俺の前から消えていく。
芸人「ハウス加賀谷」の最後だった。
加賀谷はこう回想する。
人気テレビ番組への出演で一気に知名度が増し、過密スケジュールで仕事をこなすうちにどんどん辛くなっていった当時のことを……
●ギリギリ芸人の綱渡り
「どうやら、調子がおかしいんです」
クリニックの診察室で打ち明けた。
先生は二種類の強い薬を追加した。合計五種類。プラス、薬の副作用による手の震えを抑えるために、パーキンソン症の治療薬も。薬が増えたことは、不安でもあり、安心でもあった。
その後もぼくは、間違いを犯し続けた。
気分によって、自分で飲む薬の量を増やしたり、減らしたり。薬を減らして調子を崩した時よりも、普通にやれた時の印象のほうが強く残る。そして、今日は具合がいいから一回で、今日はちょっとしんどいから多めに飲んでおこう、とやってしまう。そんな滅茶苦茶な服薬の仕方では、当然、具合が不安定になる。
でもぼくは、どんなに具合が悪くても、仕事に支障をきたすことだけはしたくなかった。家でどんよりしていても、仕事の現場に入ったら、いくらだって頑張った。
「芸人として、ちゃんとしていなくては」
そう自分に言い聞かせ、お客さんの前では明るく笑った。キックさんや芸人仲間に、落ちている姿を見せないようにした。誰にも気づかれたくなかった。具合の悪さを気づかれたならば、また不安と焦燥と孤独の闇に引きずり戻されてしまうから。
ぼくにとって「芸人」という職業は、初めて見つけた「居場所」だった。やっと手に入れた居場所を、ぼくは失いたくなかった。
壊れたぼくでもありじゃないか。壊れているんだから、騙し騙しやっていくしかない。「舞台は最高、人生は最悪」みたいな言葉もあるじゃないか、と頑張った。
芸風もギリギリと言われたが、シャレじゃなく、本当にギリギリの綱渡りをしていた。
●「簡単なことはするな」
遅刻は前にも増して、頻繁になった。
薬を大量に服用し、心も体もコントロールが効かなくなっていった。
そして、時間の概念が破壊され始めた。
携帯を見ると、マネージャーからの着信履歴がたくさんある。留守電が何件も入っている。
「先に現場に行って待ってますので、電話に気づいたらすぐに連絡下さい」
仕事に行かなきゃ。
ぼくは、マネージャーに泣きながら電話をかけ、「すいません、すいません」と謝った。マネージャーは、ぼくに心配させまいと、「キックさんは到着してるので、こっちは大丈夫です」と言ってくれた。
現場の住所を聞き、家を飛び出した。タクシーが渋滞に巻き込まれてはいけないので、電車で向かうことにした。電車の中で立っていると、また涙が込みあげてきた。我慢できなくなり、その場でしゃがみ、泣き出してしまった。人目もはばからず、「ワーーッ」と泣いた。収拾がつかないぼくを見て、かわいそうだと思ったおばさんが、そっとハンカチを貸してくれた。
「あ、すいません……ありがとうございます……」
ハンカチで口を押さえ、ぼくはなんとか涙を堪えることができた。
「疲れたなあ、今日は」
笑いながら言うキックさんに、ぼくは答える。
「そうですね」
それ以上、話せなかった。涙がボトボトこぼれてきた。隣にいるキックさんにばれないように、帽子を目深にかぶるが、ボトボト、ボトボト、涙が落ちた。
家にたどり着いたぼくは、また無気力になった。何もせず、眠ることもできず、無感情の時間が続いた。
深夜に家の電話が鳴る。出る気力もなく、コール音を聞いていると、留守電ではなくFAXに切り替わった。ジジジジーっと出てきた紙に手書きの短い文章があった。キックさんからだった。
「簡単なことはするな それはつまらないから 俺もそれはしない」
キックさんは分かっていたんだ。
分かっていて何も言わなかったんだ。
「こんな体、壊してしまえ」と思っていたが、このままではキックさんを悲しませてしまう。申し訳ない。ぼくは何をしようとしてたんだ。そう思うと泣けてきた。泣いて、泣いて、体中の水分がなくなるほどぼくは泣いた。その涙は、明らかにそれまでとは違う涙だった。
自殺という言葉を使わなかったのは、キックさんの優しさだ。
「自殺するのは、芸人として面白くない」
キックさんは、そう言いたかったんだと思う。
このFAXは、ぼくにとって、ものすごく大きかった。薬を過剰に飲んでしまうことは続いたが、これ以降、ぼくが自殺を図ることはなかった。
しかし、そんなキックの励ましも空しく、加賀谷の症状は徐々に重くなっていく。
●幻のキックさんとスナイパー
荒唐無稽な世界がリアルに襲いかかってきた。
南の窓に現れた幻は、キックさんやモンチではない。ライフルの銃口がぼくに向けられている。スナイパーだ。
「やばい!」
反射的にのけぞり、壁に頭を強く打った。
スナイパーは、ゴーグルをつけ、ライフルを構え、スコープを覗き込んでいる。『ゴルゴ13』に出てくるようなスナイパーに、ぼくは「殺される!」と思った。少しでも低くしないと撃ち殺される。四つん這いでも怖くなり、床にうつぶせた。部屋の中をほふく前進で移動し、息を殺して身をひそめた。
玄関までスナイパーが来たのは、一度だけだったが、常に命を狙われているという恐怖はついて回った。事実なら警察に相談すべきところだが、ぼくにはその考えが浮かばなかった。
仕事中は、スナイパーのことなど、すっかりというほど忘れていた。忘れているというか、ほとんど気にならなかった。
どんなに具合が悪くても、仕事は一生懸命にやる。必要とされていると思えば、体は動く。住まいの部屋で這いつくばっていても、お客さんの前では笑顔になれた。
「か・が・や・で~す!」
みんなが喜んでくれ、ぼくは再確認する。ぼくの「居場所」はまだここにある。
ぼくは、芸人「ハウス加賀谷」であることに、強くこだわっていた。
しかし、仕事が終わり帰宅すると、また独りでガタガタと震えていた。
やがて、大事な仕事でも、時間の概念が崩れ去り、大きな遅刻が目立つようになった。
自分の存在意義を見いだせる仕事。
嫌いな自分が認められることへの抵抗。
二つの思考の矛盾は、膨張の限界をとっくに超えていた。
「母さん……、辛いんだ……」
ぼくは、電話で母さんに、自分に起こっていることを話した。
ぼくに入院を説得したのも、母さんだった。
「潤さん、入院して、少し休みましょう」
「嫌だよ、ぼくには仕事があるんだ」
芸人を辞めなくてはいけなくなる。ぼくにはそれが怖かった。社会を知らないぼくは、芸人という世界の住人でしかない。芸人を辞めたら、人生が終わる。だからぼくは、入院を強く拒んだ。
だが、母さんは諦めなかった。
ぼくの主張を理解できないということもあったらしいが、「何より親として息子が心配だった」と言う。仕事以外のぼくの状態は、見るも無残だった。自分でも分かっていたくらいなので、母さんからすれば猶予の余地もなかったのだろう。
母さんの説得に、ぼくは入院拒否の態度を軟化させていった。少し休むことが最善の策じゃないか。いつの間にか、ぼくはぼく自身を説得していた。
キックさんへは、入院を決めてから報告した。
所属事務所の稽古場で話し合いの席が設けられたが、一人では動けず、母さんに付いてきてもらった。キックさんの前で、ぼくは何も話せず、何も聞こえず、「すみませんでした」と言うのがやっとだった。
/* 息子を思う母の説得により、芸人を廃業し入院することを決めた加賀谷。
それから10年。いかにして加賀谷はふたたび戻ってきたのか。
「松本ハウス」復活に至るまでの、加賀谷が、そしてキックが歩んできた長い道のり……。
そのすべてが、8月7日(水)に発売となる書籍『統合失調症がやってきた』で明かされます。「馬鹿は死ななきゃ治らない。でも、生きてりゃ治る馬鹿もある。夢あるねぇ」とリリー・フランキーさんも絶賛、発売翌日の8日(木)には、新宿ロフトプラスワンで刊行記念イベントも開催されます。
詳細・ご予約はこちらから。
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(了)
2013/10/17 更新