#1 石

 五丁目の穴ぼこと呼ばれているそれが砂時計の中にできる擂り鉢状の窪【ルビ:くぼ】みに喩えられることが多いのは、見た目の形状がそっくりなのはもちろんだがそれ以上に、時間というものがその本質的な部分に深く関与している、と多くの人々に想像されるからであることはまず間違いない。
 穴ぼこの斜面を作っている砂が、さららさららと崩れ落ち続ける音。それは、この世界が少しずつ目減りしていく音であり、言い換えればこの世界があるかぎり聞こえ続ける音つまり、この世界がたしかに存在しているという証明でもあるのだろう。
 そんな音を聞くだけでもここを訪れる価値――ようするに御利益――は、充分にあるとされている。たとえば、七十五日寿命の延びる、とかなんとか。
 だが、こんな夜なら、もっともっと価値のあるものを観ることができるかもしれない。それゆえの、この賑わいなのだ。
 確実とは言えない。だから、運を試すことにもなる。
 明かりは厳禁。違反した者は、即退場。
 そんな基本中の基本とも言うべきルールの確認が、地元ボランティアの監視員によって行われる。
 彼らは明かりを嫌うのだ。
 そのことは、本格的な研究が行われる以前から、経験則として知られていた。
 月のないこんな夜なら上がってくる可能性はかなり高いし、それを狙ってこうして見物も大勢集まることになる。
 いいですかー。
 闇の中で、監視員が言う。
 明かりを見たら――とくに、カメラのフラッシュね。そういう強力な光を見たら、せっかく上がってこようとしていても、すぐに引き返してしまいます。ほんっと、敏感ですからね。いちど引き返すと、その夜はもう上がってきません。そしてですね、そういうことが何度か続くと、もうここへは戻ってこなくなってしまうかもしれません。ですから、そういうことのないよう注意してください。
 はあい、と若い女が大声で返事をする。
 しっ、と監視員。人差し指を唇にあてている。ヘッドランプを自分の顔に向けているからそれが見える。
 静かにっ。そろそろです。
 ささやきながら、全員を見まわす。
 くれぐれも、大きな声は出さないように。ほら、あのあたり。
 監視員の指差す斜面を、全員がいっせいに身を乗り出すようにして覗き込む。
 最初はいちめんの闇にしか見えなかったそのあたりも、そこが砂の斜面であることがわかる程度には目が慣れてきている。
 月はないが、天の川が端から端まではっきりと見えるほどの星だ。砂の斜面にも、その冷たい光は降り注いでいるだろう。
 斜面の途中で、何かが蠢【ルビ:うごめ】いている。
 よくは見えないが、音だけは、はっきりと聞こえる。
 ずざ、ずざ、ずざ、ずざ。
 なんとも重苦しい音だが、それも無理はない。実際、相当な重荷を背負っているのだから。
 足を砂の斜面にめり込ませながら、擂り鉢の底から一歩一歩、彼らは上がってくる。
 すぐに崩れてしまう砂の斜面を、実際、何度も何度も滑り落ちながら、ここまで登ってくるのだ。砂といっしょに落ちてしまう心配のない擂り鉢の外側まで。
 何時間も、ときには、何日もかけて。
 死者である彼らには、時間は関係ないのだろう。
 そう。彼らについてはわからないことだらけだが、そのことだけははっきりしていた。
 そのこと――。
 彼らが、死者であること。
 その何よりの証拠に、自らの墓標を背負っているではないか。
 そして、なぜそんなものを彼らが背負っているのかと言えば、彼らが死者だから、としか言いようがない。
 彼らの墓標は、登山用のリュックほどの大きさの直方体の石だ。だが、もちろん石だからその重量は、リュックなどとは比較にならない。それを背負った状態で、砂の斜面を登ってくるのだ。
 背負わされているのか、自ら背負うのかはわからない。とにかく、擂り鉢の底に姿を見せたときには、もうすでに背負っている。
 そうでなくても登るのには苦労するであろう斜面なのだ。そんなものまで背負っていては、重みで足は膝近くまで砂にめり込み、次の一歩を出すことすら容易ではないはずだ。
 現に、バランスを崩し背中から斜面に倒れて仰向けのまま滑り落ち振り出しに戻る、という光景も珍しくない。あるいは、そのまま擂り鉢の底に消えてしまったり。
 それでも、彼らの何人かはここまで登ってくる。執念なのか本能なのか、とにかく、恐るべき何かが彼らを動かしている、としか言いようがない。
 擂り鉢状の窪みの外側まで辿り着いた彼らは、それぞれの場所を決めるようにして立ち、その場で平らな砂地を掘り始める。
 両手で足の下の砂を外へ外へと運び出していく。
 まず片足を上げ、その真下にあった砂を両手で掬う。少し低くなった砂の上に片足を下ろし、そして反対側の足を上げる。そして、その真下にあった砂を両手で掬う。そんな単純な動きが繰り返される。
 結果、立っている場所を中心にした縦穴は、少しずつ少しずつ深くなっていく。
 砂を掬うためにしゃがむと、もうその身体は見えない。そのうち、立っていても見えなくなるだろう。
 はいはいー、そろそろ大丈夫ですよー。
 監視員が、死者を上からライトで照らしながら言う。
 もうこの辺まで掘ってしまうと、光をあてても逃げたりはしません。むしろ、穴を掘るのが速くなるくらいでね。
 あのー、カメラもいいんですか。
 さっきの若い女が手をあげて尋ねた。
 はいはい、カメラ大丈夫です。フラッシュもオッケー。
 あ、そうなんだ。
 女がそう返事したときにはすでにあちこちでフラッシュが光っている。
 ぱしぱしぱし、ぱし、ぱし。
 石つぶてのようなシャッター音と絶え間のない閃光。まるで記者会見。いや、死者会見、とでも言うべきか。
 明滅する光の中でぎくしゃくと動いているそれは、大昔の無声映画の中の人のようだ。もうとっくにこの世にはいない人間。
 では、向うからは我々がそんなふうに見えているのだろうな。
 はいはい、もう触ってもいいですよ。
 監視員が言う。
 えっ、ほんと?
 ほんとにいいの?
 触っちゃっていいんだ。
 見物の中からそんな声があがる。
 いいですいいです、もう掘った墓穴にインしちゃってますからね。外に這い出してくることはないです。
 なるほど、ばさっ、ばさっ、という砂の音が聞こえるだけで、見えるのは砂を放り投げるように外に出していく手の先くらいだ。
 えーと、ですね、こういうふうにして、この縁から手を伸ばすと、頭を触ることができます。ほらほら、何か御利益があるかもしれませんよ。
 そう言う監視員の後ろから、最前列にいた男がおずおずと手を伸ばす。
 うわっ、おれ、頭を撫でちゃったよ。
 男が連れの女に叫ぶ。
 お前も触っとけ触っとけ。
 ああ、あのですねー、触るのはいいんですけどね、注意をしないと砂をまともにかけられますからねー。まあ、それはそれで御利益があるかもしれませんけど。
 あはははは、と笑いが起こった。
 そして、死者が自ら掘った縦穴の中へ次々に手が伸ばされる。触ってから手を合わせ、何かを祈っている者もいる。
 いったい死者に何を祈り、何を願っているのだろう。
 ふいに、ずっと聞こえていたばさりばさりという砂の音がしなくなっていることに気がつく。
 もう砂は、投げ上げられてはいない。
 さあ、いよいよですよー。
 監視員が言う。
 あんまり近づかないでください。足が下敷きになっちゃったりする場合がありますからね。
 ざわざわざわと見物が後退【ルビ:あとずさ】った。
 穴の中では、そろそろフィニッシュの準備にとりかかっているはずです。もう深さは充分ですからね。背中から下ろして、そして、胸の前にしっかり抱え込んでから、両腕でそれを――、と監視員がそんな仕草をしてみせる。
 と、さっきまで手の先だけ見えていたあたりから、ゆっくりと角張ったものがせり上がってきた。
 ほらほら、ねっ。あれです、あれが背負っていた石です。出てきました出てきました。両腕でね、重量挙げみたいにして、あれを持ち上げているんですよ。自分の頭の上にね。もちろん重い。ほらほら、ぷるぷるぷるぷる震えてるでしょ。
 なるほど、直方体のその石は小刻みに震えている。見ているこちらまで、自然と力が入ってしまう。
 がんばれぇっ。
 もうすこしっ。
 しっかりぃっ。
 そんな応援の声が、見物からあがり、だがそれも押し殺したように静まる。
 緊迫した空気の中、さらさらさらと聞こえているのは、砂の音だけ。
 なにしろ乾いた砂地に掘られた縦穴だ。
 放っておけば砂は崩れ、流体のように低いところへ低いところへと流れ込んでいくのは当然だろう。さっきまで砂を掻き出し続けていた両手が石を持ち上げるために使用されている今、それが起きている。
 自らが掘った穴。その周囲の砂の壁が崩れ、そして自分と縦穴の隙間を埋めていく。
 さらさらさらさらさらさらさら。
 その静かな流れを止めることは、もう誰にもできない。それでも突き上げられたままの両手。そして、その両手が掲げている石。
 砂の上に見えるのはそれだけだが、死者と縦穴との隙間が、崩れていく砂で埋められていく様は、その音だけでもわかる。
 やがて、手の周囲も砂で埋まる。
 そこにはもう、穴はない。石を掲げた両手だけが砂から突き出ている。
 そのことを確かめて安心したかのように両手から力が抜け、掲げていた石は、どす、と鈍い音を立てて落ちる。
 両手はそのまま石の下敷きになった。
 もう見えない。縦長の直方体の石が、まっすぐ砂の上に立っているだけ。
 かくして、死者自らの手によって死者の真上に墓石が置かれ、埋葬は完了する。
 管理人が、油性のフェルトペンでそのすべすべした灰色の石の表面に日付を書き込む。
 きゅうきゅ、きゅきゅう。
 フェルトペンが耳障りな音を立てた。
 まわりに並んでいる墓石に懐中電燈を向けると、どれにも同じように日付が記されている。
 ああそうか、ここに記されるのは、死んだ日付、ではなくて、自らを埋葬した日付、なのか。
 ふと、そんなことを思う。
 見物たちは、今できたばかりのその墓石の前で神妙に手を合わせ、それから記念写真を撮る。フラッシュが輝くと、石に抱きつくように腕を回したり、石と肩を組んだり、石に腰かけたり、と様々なポーズを決めた人々の姿が闇に浮かぶ。
 皆、そのまま遺影に使えそうな満ち足りた顔だ。

(つづく)
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    1962年、兵庫県生まれ。大阪在住。SF作家。1992年に『昔、火星のあった場所』(徳間デュアル文庫)で第4回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞しデビュー。2001年、『かめくん』(徳間デュアル文庫)で第22回日本SF大賞受賞。2010年には、〈ボクラノSFシリーズ〉にて『どろんころんど』(福音館書店)を上梓。『SFが読みたい!』誌恒例企画「ベストSF2010」国内篇第2位に選出された。2011年8月には傑作の呼び声高き『きつねのつき』(河出書房新社)も刊行。新作落語の会である『ハナシをノベル!!』で落語作家としても活躍中。