青かった、恋とマンガと初期衝動
古屋兎丸の初期重要作を収録した『禁じられた遊び』が刊行、
しかも表題作は今回初公開となる、15歳当時の作品です。
そんな古屋氏の青春初期衝動エピソードをお聞きしました。
──絵は、子供の頃から好きだったんですか?
好きすぎて、親に禁止されてたの。家の柱とか壁とかに描きまくってたから。だから年末に、家族が出す年賀状を100枚くらい渡されて、それには絵を描いていいっていう制度があった。それが毎年すごいうれしかったのを覚えてる。年賀状担当は3~4歳から高校生くらいまで続きました。
──マンガは描いてましたか。
小3の時から、友達4~5人とお互いの家を行き来してコピー誌を作るようになったんです。その時の仲間に、いま東大の教授になってる人がいて……宇野重規君っていう。何年か前に、宇野君の本(『トクヴィル 平等と不平等の理論家』)のカバーイラストを描いたことがあります。
──今でも会われているんですか。
最近は会ってないけど、つい1週間くらい前に電話して「何かいいネタない?」とかって聞いた(笑)。あと小島君っていう、いまプログラマーをやってる子が昔から変わってた。中学のときなんだけど、授業を聞きながらノートいっぱいに点を打って、それを線でつないで小さい三角形の塊を描くのね。あとでそれを見たら、授業で何をやったか思い出すんだって。それでものすごく成績がよかったっていう。でもノート借りても全然意味がわからない(笑)。ある意味天才ですよね。
──古屋さんはどんな小学生だったんでしょう。
いや、全然普通の。わりと大人しい感じで。それで中学に入ったら、原君っていう、マンガが衝撃的に上手な子がいて。もう自分とは雲泥の差。彼はいま全然違う仕事をしてるんですけど、そっちの道に進んでたらすごいことになってたと思いますよ。原くんはいい友達で、よきライバルだったし、軽いジェラシーも感じてた。そんな原君への対抗意識もあって、雑誌にイラストの投稿を始めるんです。今回の本(古屋兎丸初期短篇集『禁じられた遊び』)にも一部収録されていますけど、中学はハガキ職人の時代でした。「少年キング」の読者欄に、毎週のように投稿して。
──どうして「キング」だったんですか?
投稿者のレベルがすごく高かったから。常連の投稿者が自分にとっては本当に神々の世界だった。「え。これ本当にハガキに描いてるの?」っていうような。そこに近付きたくて……やっと下の方に名前だけ掲載されたんだけど、うれしくて本を2冊買ってね。そのあとちゃんと絵が掲載されたときはもう、「やった!!」っていう。それからだんだん掲載率が高くなって、もう得意満面。
──「どうだ!」みたいな。
そうそう。やっぱり自分の絵が印刷されるっていうのはすごいことで。クラスの連中を見回して「お前らと俺とはもう次元が違う!」って心の中で思ってました(笑)。思春期の自意識全開でバカすぎるけど、でもそれくらい誇らしかったんですよ。
──原君にも見せましたか。
見せました。素直な子なんで普通に「すごいじゃん!」って言ってくれましたね。それでこっちも、原君にほめられた~とか思って。そういうのがあって、その後「キング」でメンバーを募集していた、HITっていう漫画同好会に参加したんです。
──その会報誌「THE MA」に描かれた作品のひとつが、今回の単行本の表題作『禁じられた遊び』ですね。
そうですね……なんで、よりにもよってこれが表題作なんだっていう。いまさら人に見せるのマジで恥ずかしいんだけど。
──大丈夫です。これは15歳、高校の入学試験の3日前に描いた作品とか。
当然、そこは落ちましたね。でもおかげで吉祥寺の明星高校に行くことになって、それが大きなターニングポイントになったんです。その後約10年間、マンガ活動から離れるんですよ。……そういう意味では『禁じられた遊び』は古屋兎丸以前、古屋剛(※本名)時代の代表作と言えなくもないかもしれない(笑)。
──高校、大学とマンガは描いてなかったんですか。
やっぱりマンガなんて描いてても暗いな、単なるオタクだな、とか思って。中学の時に江口寿史さんの『ストップ!! ひばりくん!』を読んで、本当にハマりまくったから、そういうオシャレで華やかな世界の中で青春を謳歌したい!っていう思いがあって……まあそれもやっぱりマンガの世界なんですけど(笑)。でもあとから聞くと、『ひばりくん』は明星の生徒をモデルにしてる部分があったんですってね。
──『ひばりくん』の衝撃は大きかった。
それはもう熱狂したし、人生が変わりましたよね。江口さんのギャグが、あのポップでかわいい絵で炸裂しているっていうのが……もう最高じゃないですか。連載の始まりからスクラップして自家製の単行本を作ってました。それをさっきの原君や、そういう話のわかる友達と読んで、「このひばりくんやばくない?」「かわいいよねえ」「もう男でもいいよね」って。「でもひばりくんのお姉ちゃんにも言い寄られたらどうする?」みたいな。
──杞憂ですね。
杞憂なんだけど、「えー、そうなったら困るよ~」って、みんなで困ったりして(笑)。つばめちゃんがひばりくんの身代わりになって、服を脱ぐ場面があるじゃないですか。あそこに乳首を入れて色を塗った完璧なバージョンを作ったりしてました。
──それはそれとして、イケてる高校生になろうと。
高校デビューしようと思って。それまでずっと八王子にいたのが、オシャレな吉祥寺に通うわけでしょう。しかも明星は私服だし、華々しい世界に足を踏み入れる感覚ですよね。それでまずテニス部に入ったんです。もともと運動神経は悪くないほうだったから。でもとにかく練習が地獄のようにキツいし、運動部ならではのシゴキもあって。
──向いてないなと。
生まれ持った性格は変えられないなと(笑)。で、ある時イケメンが前から歩いてきてね。Y’sかなんかの黒いコートを着て、当時のデヴィッド・シルヴィアンみたいに髪型をキメたのが僕を見て「おおお?!! オレオレ!」とかっていうわけですよ。え、誰……と思ったら原君だったの。彼は八王子の公立高校に行ってて、全然会ってなかったんだけど、そのあと10キロ以上やせて、高校デビューに成功したんだね。あとで噂に聞いたところによると、たいそうおモテになったそうで……。「また原君に先を越された!」と思った。
──一方そのころ古屋少年は。
あのー、1年上に美人の先輩がいたんです。ボブカットだったから、勝手に「ボブ」って呼んでて。はかなげで可憐で、物静かなんだけどいつもニコニコしていてね。仲間うちでも「ボブ先輩見た?」「きれいだよね」みたいな。ボブ先輩は美術部だったんだけど、文化祭の出し物で、赤い着物にメイドがするようなひらひらのエプロンを着けていたの。それが本当に美しくて、ハートを射抜かれた。
──惚れた。
惚れた。それで美術部に入ったんです。しばらくテニス部と掛け持ちしてたんだけど、2年の夏休みに重度のギックリ腰になって……合宿に行けなくなったし、もういろいろめんどくさくなってテニス部はやめた。まあ美術部といっても大した活動はしてなくて、みんな好きなときに集まって帰ったりとかっていう。
──ボブ先輩と話したりとか。
それが話せなかったですね……。それである日吉祥寺駅でボブ先輩を見かけて、「あっ、どこ行くんだろう?」と思ってこっそりついていったんです。
──お。
そしたら国分寺で降りて、武蔵野美術学院っていう美大の予備校に入っていったんですね。「ここで勉強してるんだ……」とか思って入り口を恐る恐るのぞいてたら、先生が出てきて「見学かい?」っていうから、「あ、そうです」と。
──(笑)
すごい親切に案内してくれて。そしたら油絵科のところで、ボブ先輩が準備をしてたの。それで先生が、「君は何かやりたいことがあるの?」って聞いてきたから、迷わず「油絵です!」と、いきなり断言しちゃって。
──ボブ先輩がやってたから。でも美術自体には興味はあったわけですよね。
あったけど、自分から美術系に行こうとは思わなかったんですよ。あんなのは天才が行くところで、イチ高校生が行くところじゃない……まあみんなイチ高校生なんだけど(笑)、当時はそう思ってた。でもボブ先輩がいるから、予備校でパンフレットもらって、その日のうちに親に見せたの。「ここに通いたいんだけど」って話をしたら、「他にも予備校あるのに、なんでわざわざこんな遠い駅のに行くの?」って。まあそうですよね。
──なんて説得したんですか。
最終的に……「ここがいいんだよ!」って押し切ったような。
──それでご両親も「お、おう」と。
そろそろ進路を決めなきゃいけない時期だったし……親としては、中学まで美術部入ったり絵とかマンガとか描いてた息子が、いきなり高校になったらテニスとか始めるし、どうなってるんだと思ってたと思うんですよね。それが高2の時に、そういう事情とはつゆ知らずですけど、美術系に行きたいとか言い始めたから、ああ「やっぱりちゃんと進路を考えてるんだな」と思ったんじゃないかな。
──自分の適性を見つめなおした結果の選択なんだな、と。
実際は女の色香に惑わされただけなんだけど(笑)。
──でも同じ油絵科に入ったことで、接点がより増えたわけですよね。
あー、だけどほら、彼女は3年で受験コースで、こっちはお遊びみたいな基礎コースだったからクラスは違うし。たまにクラスをこっそりのぞきに行くくらいで。
──じゃあそれ以降もほとんど話したりしてないんですか。
まったくないですね。
──学校でも。
ない。
──たまに見るくらい。
そう。部室で絵を描いてたら「古屋くん、けっこう上手なんだね」ってボブ先輩が話しかけてくる……っていう妄想をしてたんだけど、全然そんなことは起こらなかった(笑)。それで入試があって彼女はムサビ(武蔵野美術大学)に入ったから、自分も目指すわけですよ。だけど受かったのは多摩美(多摩美術大学)で、ムサビは補欠だったの。でも多摩美の入学手続きの期間のほうが先だし、親はもう多摩美に決まったと思って喜んでるし、どんどん外堀が埋められちゃって、さよならボブ先輩……と。
──……それでこの話は終わるんですか?
終わりです。今に至る。ただ、ボブ先輩が自分の人生を導いた……か狂わせたかわかんないけど、影響を与えたことは確かですね。彼女がいなければ美大にも行ってなかったでしょう。その文化祭の時の赤い着物にエプロンの姿も、油絵で何枚も描きましたし。実家の物置にまだ残ってるかもしれない。……あとけっこう重症なのが、当時「ぶ~け」っていう雑誌に、誰のなんていう作品か忘れたけど、ボブ先輩そっくりの主人公が出てくるマンガがあって、そのせいで「ぶ~け」を購読してたんですよね。そこだけ切り抜いて本にしてました。「ボブ先輩の本」って名付けて(笑)。
──ちなみに初恋はいつだったんですか。
えーと小学校3、4年で……転校生の麻由子ちゃん。美少女でした。でもスカートめくったりとかしてちょっかい出しすぎて、嫌われたというか。……いまでも「エーデルワイス」を聴くと胸にこみ上げてくるものがあるんですけど。リコーダーで「エーデルワイス」を吹くのを、上手い人と下手な人が2人1組になって練習するっていうのがあって。自分は下手なほうで、麻由子ちゃんは上手かった。それで向い合って指を見ながら練習するっていう。
──上手い人がお手本になる。
そう。でもおれは緊張しちゃって、その時もう手が震えまくって、音も震えまくって、顔も真っ赤でもう恥ずかしくって……いまだに「エーデルワイス」を聴くとその思い出が蘇って、胸が苦しくなりますね。いまでも麻由子ちゃんの笛の音色とか、表情とか思い出しますよ。こっちはすっごい震えてるから、怪訝そうな顔してました。
──普段はどんな子だったんですか。
線が細い美人で、あんまりしゃべるほうでもなくて……やっぱボブに似てましたね。顔も含めて。
──(『禁じられた遊び』扉絵を指して)わりとこんなかんじだったんですか。
あ、こんなかんじでした。麻由子ちゃんそっくり。
──おー。実は初恋の人がモデルだった。
まあ……麻由子ちゃんとは中学も一緒でしたしね。明確にモデルにしたわけでもないと思うけど……でも似てますね。雰囲気というか、すごい活発ではないけど、裏でなにかこういう、ほの暗いことを考えてそうなところとかも。
──そしてこのキャラは、後に出会うボブ先輩にも似てるということですよね。
髪をボブにしたらボブになりますね。理想の女性像の元型なんですかね。
──そういわれれば古屋作品、特に今回の初期作品のヒロインたちにも、共通する部分があるような気がします。
これはもうしょうがないですね。
──『禁じられた遊び』は麻由子さんには見せたんですか?
見せてません。……あ、でも高校デビューしたあと、帰りの八王子からのバスで麻由子ちゃんにひさびさに会ったんだけど、向こうが小学校の時みたいに「剛(ツヨシ)くん」って話しかけてきてくれて。中学校のときはもうこっちが緊張してしゃべれなかったのね。それでひさしぶりに話したら、「剛くん、かっこよくなったね」って言われて。
──おー。
すごいもう……天にも昇る気持ちっていうんですか? これはもう、次に会ったら絶対にデートに誘おう!と思って、まあ、そのまま会うことはなかったですよね。
──なぜそこですぐに誘わないかという話ですよね。
そんなことだらけですよ。なぜボブに一回も話しかけなかったのかとか、そういう後悔は山ほどあります。……ただ、とにかく自分は明星高校に行ってなかったら、マンガ家にはなってなかったんですね。明星に行ったから、のちに明星の美術講師になったし、明星の美術講師になったから、ヒマすぎてマンガを描き始めたし。
──ヒマだったんですね。
時間はあり余ってたし、それにやり場のない表現欲求みたいなのもあって、それが結びついてマンガという表現に至ったんですね。「マンガをもう一回描こう!」と。
──『禁じられた遊び』以来休筆していたけれども。
あの『禁じられた遊び』を超える作品を描こう!と……いやそんなこと全然思ってなかったけど。
──明星の講師になったのはどういう経緯でしたっけ。
もともと就職は決まってたんですよ。当時バブルで超売り手市場だったから、三井系のコンピューターグラフィックスとかやる、わりとちゃんとしたところに内定したんです。でも山領(やまりょう)さんっていう、おれが教育実習で明星に行った時についてくれた先生がいて、その人が「君はそれでいいのか、君はアーティストになるべきなんじゃないのか」と言ってきて。ただ自分はその当時……これ話すと長くなるんですっ飛ばしますけど、「アートをしないことがアート」だと思ってたんです。
──就職活動をするぐらいの時期に?
そう。その頃に「アーティストがアーティスト活動をするのは」──
──「アートじゃない!」と。
そういうねじ曲がった考えをしていて、社会の一部として組み込まれることがむしろアートだっていう理論武装ができあがってたんですね。内定後に山領さんにそんな話をしたら、「おまえは間違ってる」って言われて。
──(笑)
「いまはそういう考えかもしれないけど、のちのちそれ後悔するから」と。でも普通だったらそんなに、人の生き方に入ってこないじゃないですか。でも山領さんは熱心に……けっこう電話でね、8時間ぐらい説得されたんですよ。夜中の1時くらいから朝まで。でこっちも疲れたし、まあ確かにそうかもしれないなと思うところもあって、軽く目が覚めたっていうか。そこで「いま空きがあるから、とりあえず明星で講師でもやれば」って口利きをしてくれたの。それがなければ普通に就職してたよね。
──CGを作ってた。
でもその会社は5年後につぶれちゃった。バブルが弾けたから。たぶんそこにいたら、同じ系列の会社の、自分の絵とは全然関係ない仕事をやってたかもしれないなあと。それで結婚して、ああ、そういえば中学校の時に『禁じられた遊び』なんてマンガも描いてたっけなあ、くらいな感じになっていた可能性も全然あるわけです。山領さんがいなかったら。だから、自分で選んできた人生なんてひとつもないですよね。全部誰かに導かれたっていうか。
──なるほど。
それでマンガを描いてガロに投稿してデビューして……。それからやっぱり、また江口さんに導かれるんですよ。まだ単行本も1冊も出てないころにコミック・キューに呼んでくれて、それでちょっと世間に注目されたんです。「誰だこれ?」みたいな。それがなくていきなり単行本、『Palepoli』が出てても、たぶんそんなに手に取ってもらえてなかっただろうなって。それはすごくありがたかったなあ。
──そんな古屋さんの初期衝動が詰まった、初期短篇集『禁じられた遊び』を読まれる方にメッセージなど。
そうですね……正直別に上手くはないんですが、いろんな工夫をしながらなんとかやってきたというところがあります。それに良くも悪くも、その時その時にしか描けなかった作品ばかりで。だから温かい目で読んでいただければと。成長記録みたいなかんじで(笑)。
──親のような目線で。実際に自分のお子さんがこんな感じでマンガを描いていたら、どう接しますか。
自分のこういうことって忘れるじゃないですか。でもこうやって振り返って……10代の傷をえぐられるとね、自分の子供には寛容にしなきゃなって思いますよね。子供がわけのわかんないことを言い出しても、ちゃんと自分のことを省みて接してあげないと。
──自分の通ってきた道をこの子も歩いてるんだなと。
自分が、何か親から反対された記憶っていうのがないんですよね。就職を蹴って講師になるっていう、不安定な道を選ぶっていうときも反対されてないし、美大に行きたいっていうときも反対されてないし、予備校に行きたいっていう時も……最寄り駅には疑問を持たれたけど、結局自分の進路に関して、親が障害になったっていうことは一切ないんですよ。それは大きいし、ありがたいことで。
──マンガも見せてたんですか。
見せてた。「投稿載ったよー」って。『禁じられた遊び』はさすがに見せてないけど。『Palepoli』が出た時は、父親が電車で、表紙をみんなに見せるようにして読んでたって。別に感想をいうとかはないけど、単行本は実家に全部そろってた。
──見守ってくれてたんですね。
だから自分も、子供が心からやりたいと思ったことに対しては、障害にならないようにしなきゃなって思うんです。それこそ初期衝動の芽を摘まないように。
(インタビュー:堅田浩二)