#10 出口なし
男が椅子に座っている。
その椅子に、男は覚えがある。男の人生の中で、確かに一度、座ったことのある椅子だった。しかし、どこの店の椅子だったのか、もしくは自分の部屋の椅子だったのか、男は思い出すことができない。
一畳ほどのスペースに、男はいる。男は狭いところが好きではない。そのことも、男は覚えている。目の前にドアがある。そのドアにも覚えがある。でもそれがどこで見たドアなのか、思い出すことができない。
男は椅子に座り、目の前のドアを見続けている。数時間かもしれないし、数十年かもしれなかった。時間の感覚が失われている。ただ、身体がだるかった。どうしようもないほど、身体がだるかった。男はうんざりしている。自分の人生を、常にそう過ごしてきたのと同じように。
じっとしながら、また数年が経ったような気がする。この部屋は酷く狭い。音もなく、匂いもない。自分が瞬きをしたような気がした時、目の前のドアがゆっくり開く。男はそのドアの向こうを気だるく眺める。そこには男が座っている。自分と全く同じ人間が、こちらをうんざりと眺めながら座っている。
「……そうだと思ったんだよね。……このドアを開けても、どうせそんなことだろうと」
目の前の男はそう言う。同じ一畳ほどのスペースの中で、開いたドアのすぐ向こうで、男と同じ姿勢で椅子に座っている。
「……俺は待ってたんだよ。このドアが開くのを、ずっと」
「……俺は迷ってたんだよ。……このドアを開けるか、ずっと」
二人の男は、お互いを眺めながら黙る。彼らの距離は酷く近い。二人は同じ顔で、同じ服を着ている。
「……あのさ、ドアを開けるなら、引いてくれればよかったんだ。……こちらに押して開けただろう? そうすると、こっちが狭くなる」
「このドアは押して開けるしかないんでね」
二人はお互いを眺める。
「……嘘だ。爪先に当たるんだよこのドアが。引けよ」
「そういうところだよ。……細かいし、人をすぐ疑う」
「何言ってるんだよ。……おまえの顔見てると苛々するんだよ。……目が暗いんだ。口元も……、どうにかできないか」
二人はお互いを盗み見るように、視線を動かしている。
「おまえもだよ。……嘘ばかりついてきた。どれだけの人間を傷つけた? 覚えてるか、あの女のことを」
「……おまえと同じくらいは。他人を幸福にすることからおまえは逃げてきたんだ。挙句の果てに、無理に会社を起こして、やばい金に手を出す始末だ。……ん? おまえ、覚えてるか」
「……おぼろげに。黒子の多かった女が部屋を出ていって……」
「第1話目か」
「……何の話だ?」
「ん? わからない。……それで、今度は知らない人間達が入ってきて、……胸に変なバッチつけた奴らが。それで、……ああ」
「そうだ」
目の前の男が息を吐く。
「……俺達は死んだんだ」
男が苛立ちながら、こめかみをかく。
「……なるほど、これが地獄か」
二人の男は、お互いを眺める。うんざりしている。この部屋は酷く狭い。音もなく、匂いもない。
「地獄って言えば、火の海とか、鬼とか想像してたけどな……。とにかく、おまえの人生は失敗だったんだよ。完全な失敗だ。多くの人間を利用し、傷つけた挙句、成功すらしなかった」
「そうだ、おまえはやたらと傷つきやすい。度胸もない。でも野心だけあった。……自分の存在の不安を、くだらない野心に変えて」
二人はお互いを眺める。
「……なあ、ドアを引いてくれないか。爪先にドアが当たるんだ」
「だから、細かいんだよおまえ」
「引けよ。というか、閉めてくれ」
「……閉められない。俺も閉めたい。でも、一度開けたら、もう閉まらないんだ」
二人の男はしばらく沈黙する。
「……なら、お互いを見ないようにしないか? 我慢ならない」
二人はお互いから目を逸らす。しかし、やはり目の前の存在が気になって仕方がない。どちらともなく、また口を開く。どちらかがこめかみを激しくかき、どちらかが腰のあたりを酷くかく。
「……覚えてるか。おまえが裏切った、あの男を。……え? どう言い訳する?」
「おまえが言い訳すればいいだろう。あの老人のことは覚えてるか? おまえが金を騙し取った……」
二人はお互いを眺める。うんざりしている。
「……そうか。これが永遠に続くのか」
(了)
―#10―