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友人を訪ねて早春の熊本へ。春の風が湯上りの頬に気持ちいい。
あと少ししたら、またヒマラヤで雪と氷に囲まれた日々が始まる――。
石川直樹が、犬たちとの一瞬の邂逅を軸にこの世界の有り様を綴る写真連載。



#26



ここは熊本、季節は春(熊本・辰頭温泉)





 ひょんなことから、熊本県菊池市の辰頭温泉に行くことになった。丸一日、友人の坂口恭平君に彼の郷里の熊本を案内してもらい、熊本空港に帰る途上、最後の立ち寄り場所として温泉に連れて行ってくれたのだ。
 熊本を案内してくれたのは坂口君だが、途中で坂口君の奥さんであるフーさんと娘のアオちゃん、息子のゲンくんと合流し、坂口一家に石川を加えた総勢5人で温泉に向かった。
 辰頭温泉は、源泉かけ流しの贅沢な温泉である。にもかかわらず、ぱっと見は公衆銭湯のような親しみやすさがあり、もったいぶっていないところがいい。入浴料は200円。利用者は、ほとんどが地元のじいさんばあさんで、若者の姿は見えなかった。
 アオちゃんはあやとりが好きで、隙を見つけては恭平オヤジにあやとりをしようと持ちかける。温泉の待ち合い所であやとりをする二人の姿を見ていて、「ああ、坂口君もパパなのね」と、しみじみ思う。
 坂口君がゲン君を連れ、フーさんがアオちゃんを連れて、それぞれ男湯と女湯に入った。坂口君は不器用な手つきでゲン君の服を脱がして浴室の洗い場を確保すると、ゲン君の体をごしごしと洗うのだった。
 浴室は混雑していて、洗い場は争奪戦である。ゲン君はオヤジに体を洗われ、温泉に浸けられて、半分泣いている。顔をくしゃくしゃにしつつもきょろきょろしているゲン君は、温泉を気持ちいいと思っているのだろうか。感想を聞きたいが喋れないので、聞けない。
 内湯と露天、二つの温泉に浸かりながら、毘沙門天がどうのとかカイラスがどうのなどと坂口君と話をし、軽く汗をかいてきたところで温泉を出た。
 ゲン君は脱衣所で再びオヤジにタオルでこすられ、服を着せられるというよりはかぶせられる感じで、ずっとなすがままである。
 フーさんとアオちゃんは、ぼくたちよりも早く風呂から出ていた。男湯のドアを3センチくらい開けて、オヤジとゲン君の様子をのぞき見して笑っているアオちゃんはかわいかった。
 温泉を出たところにあるベンチで坂口君は一服し、ぼくはアオちゃんに声をかけて、毛むくじゃらの犬の横で写真を撮らせてもらった。この犬、湯上がりの清々しい気持ちに満ちた人に会い続けてきたからだろうか、人なつこくておとなしい。存在感があるようでないようで、やっぱりある、空気のような犬だ。自分と同じくらいの大きさの生き物なのに、アオちゃんも毛むくじゃら犬もお互い警戒心がなくて、自然だった。
 東京ではまだまだ春が遠い3月半ばだが、熊本はすでに暖かく、湯上がりで触れた空気が心地よかった。すっかり温まった5人は、坂口君が運転する青いミニクーパーに乗り込んで、空港へ。坂口一家に見送られて、ぼくは熊本を後にする。長く厳しいヒマラヤ遠征直前の、ささやかで穏やかな一日が終わろうとしている。





(了)
―#26―


2012年12月よりお届けしてきた本連載ですが、
マトグロッソでは今回が最終回となります。
これまでのご愛読、本当にありがとうございました。
2014/03/27 更新
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Qomolangma チョモランマ
『Qomolangma(チョモランマ)』(SLANT)
『Lhotse(ローツェ) 』に続くヒマラヤ写真集シリーズ第2弾。2001年、23歳の石川は、チベット側から世界最高峰・チョモランマ(エベレスト)に登頂。この遠征は、その10年後にネパール側から再登頂することになるエベレスト、さらにローツェやマナスルといったヒマラヤのへの旅の出発点でもある。当時の写真に加え、2013年末から14年初頭にかけて再訪したチベットの街と人々の暮らしを写しとった作品も収録。





バングラデシュ (世界のともだち)
『バングラデシュ (世界のともだち) 』(偕成社)
世界36か国の子どもたちのくらしを紹介する全36巻の写真絵本シリーズの一冊。石川が担当したのはこの数年で何度か訪れているバングラデシュ。ダッカの中心部からCNGという三輪タクシーで小1時間、ガンジス川をわたった先の街に暮らす、少年アシフの日常を紹介する。青い自転車がアシフの相棒!

石川直樹(いしかわ・なおき)

1977年東京都生まれ。写真家。高校2年生のときにインド・ネパールへ一人旅に出て以来、世界を絶えず歩き続けながら作品を発表している。2000年に北極から南極まで人力で踏破するPole to Poleプロジェクトに参加。翌2001年には、七大陸最高峰登頂に成功。2011年には、2度目のエベレスト登頂を果たす。昨年秋、マナスル登頂に成功。写真集に『THE VOID』(ニーハイメディア・ジャパン )、『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)、『VERNACULAR』(赤々舎)、『Mt.Fuji』(リトルモア)、『ARCHIPELAGO』(集英社)他、著書に『全ての知恵を装備に置き換えること』(集英社文庫)、『For Everest ちょっと世界のてっぺんまで』(リトルモア)他がある。 2008年、『最後の冒険家』(集英社文庫)で第6回開高健ノンフィクション賞、2011年には写真集『CORONA』で第30回土門拳賞受賞。
ブログ:http://www.littlemore.co.jp/foreverest/

[作者より]
2010年に訪ねて以来、4年ぶりにフィリピンのルソン島にきています。28日に帰国し、31日からヒマラヤへ。しばらくこの連載はお休みです。世界のともだちシリーズから『バングラデシュ』(偕成社)が発売になりました。ぜひ読んでみてください。みなさん、またお会いしましょう!