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森田一義ことタモリの本質を追求した『タモリ学』。
本書と連動し補完する、「大タモリ年表」はこちらです。
膨大な量ですので、気になるところからお読みください。




illustration by 小田扉



#1 1945年(0歳) ~1974年(29歳)
#2 1975年(30歳)~1980年(35歳)
#3 1981年(36歳)~1985年(40歳)
#4 1986年(41歳)~1997年(52歳)
#5 1998年(53歳)~2013年(68歳)
#6 2014年(69歳)~2015年(70歳)

#2 1975年(30歳)~1980年(35歳)


1975年(30歳)

▼1月、30歳になる年を機にすべての仕事を辞める。以前から「30歳になったら仕事を辞めて将来をじっくり考えよう」と考えていた。
▼タモリとの出会いに衝撃を受けた山下洋輔は、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」などで、ことあるごとに「九州に森田という、すごい面白い奴がいる」と喧伝。やがてバーのママ・柏原A子女史(山下洋輔初代マネージャー柏原卓の元妻)の発案で、「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が山下洋輔、赤塚不二夫、坂田明、筒井康隆、三上寛、長谷川法世、奥成達、高信太郎、長谷邦夫、森山威男、南伸坊ら常連客により結成される。
▼3月、山下洋輔グループの中村誠一から上京を誘う電話。
▼6月、「森田を呼ぶ会」で帽子を回して集めた金で購入した東京行きの新幹線チケットがタモリの手に渡り、上京を果たす。
▼「ジャックの豆の木」では常連客を前に、アントニオ猪木や松田優作の物真似、ニセ外国語、NHK教育テレビのパロディ『陶器の変遷』、『音楽の変遷』などを披露。さらに筒井康隆や唐十郎、山下洋輔らからの「アメリカの宇宙飛行士と中国の宇宙飛行士の絡み合い」「中国製のターザン映画」などのリクエストに応えて即興で応じ、その場を熱狂させる。「四カ国語マージャン」も山下のリクエストから生まれたものだった。最後はストリップが始まり、全裸で踊り狂ってフィニッシュというのが恒例だった。後に詩人の奥成達は、それを「恐怖の密室芸」と呼ぶ。
▼『タモリだよ!』(平岡正明/CBS・ソニー出版/81)によると、当時「ジャックの豆の木」で磨き上げた「密室芸」のレパートリーは「国連Aセット」(台湾国連脱退をめぐる韓国、台湾、中国の演説。B、Cセットもあった)、「四カ国語マージャン」(オリジナルは天皇臨席)、「ターザン・シリーズ」「強要特別番組・李参平と白磁の由来」「明日の農作業の時間」「松正丸事件の真相」「肥前ナイロビ・ケニヤ線乗換え」「ジャズの変遷」など。
▼赤塚不二夫もその芸に驚き絶賛。「こいつは絶対に九州に帰してはいけない」と思い、8月に予定されている自分の番組に出るように勧める。それまで泊まるところがないというタモリを、自宅に居候させることに決める。
▼目白の赤塚邸は当時でも家賃17万円、4LDKの高級マンション「カーサ目白」。冷暖房完備、台所にはハイネケンのビールが山積みにされ、服も着放題、しかもベンツのスポーツタイプ(450SLC)も乗り放題、月3万円近く(いまの20万円ぐらい) のこづかいまで与えられる。そこにタモリは毎晩のように友人を呼び宴会をして、贅沢三昧を繰り広げた。冬は使っていない部屋も暖房つけっぱなし。暑くなっても暖房を消さない。逆に「冷房を入れるの(笑)」[1]
▼居候生活が半年ほど経った頃、「あの赤塚不二夫だから、別に住むところがあるのだろう」と思いこんでいたタモリは、実は赤塚が下落合の狭い仕事場でロッカーを倒しベッド代わりにして寝泊まりしていたことを知るが、「代わりましょうか」と言うのをグッとこらえてそれまでどおりの生活を続ける。途中、妻・春子も呼び寄せた。夜毎「ジャックの豆の木」で飲み、一緒になった人とどこかに流れ、赤塚と合流。
▼赤塚邸にはカセットデッキ、エコーマシン、簡便なミキサーなどの機材があり、コマーシャル・DJ・ニュース・教養講座・報道番組、家中の物を叩いたり引っ掻いたりして作る前衛音楽などを録音して遊んだ。また「劇団仲間」と銘打ち、数人でラジオドラマを作る。7分のドラマ制作に8時間くらいかけていた。この居候生活は高円寺に新居を構えるまでの、9カ月間あまり続く。
▼8月30日、『土曜ショー』(NET・現テレビ朝日)の「マンガ大行進! 赤塚不二夫ショー」でテレビデビュー。インチキ牧師の芸を披露。たまたま放送を見て衝撃を受けた黒柳徹子はすぐに赤塚不二夫に電話。その後の『徹子の部屋』出演につながったといわれている(が、おそらくそれは黒柳徹子が司会を務めていた『徹子の部屋』の前身番組『13時ショー』だと思われる)。最初はサングラスではなく普通のメガネで七三分けだった。その後ディレクターからキャラを立てるよう言われ、仲間に借りたサングラスをかけ始めた。別の番組では同様の理由でアイパッチを着用。なお愛用したレイバンのサングラスは、もともとは髙平哲郎の私物。
▼事務所に所属していなかったタモリに、A子女史が“社長”、山下洋輔が“常務取締役”となった「オフィス・ゴスミダ」(「ゴスミダ」はタモリが韓国語モノマネ時に用いるフレーズ)という名刺を作り、マネージメントの真似事をしていた。実際に2回ほど仕事を受ける。その後タモリは原宿セントラルアパートの浅井愼平、髙平哲郎の事務所「アイランズ」に“移籍”。田辺エージェンシーに所属するまでここが連絡先となった。
▼浅井愼平に写真の撮り方を教わる。撮影現場に同行したタモリは、ただ見るのでは面白くないからと、浅井の提案に従い「謎の写真家の巨匠」に扮していた。「(浅井の)弟子よりも(写真を)教えてもらった」[2]
▼早稲田大学の先輩である小西勝明(啓一)の依頼で日本短波放送(現ラジオNIKKEI)に、ピアニスト中村紘子のインタビュアーとして出演。これが初のラジオ出演となるタモリはガチガチに緊張。最後に「申し訳ありませんでした」と謝り、しょげかえるほど無残な出来だった。
▼早稲田大学の先輩である岡崎(本名:近衛)がディレクターを務めていた『高信太郎のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)にゲスト出演。CMパロディ「ブラジャー・ミシン」などが演じられた。特に「アグネスの熱狂的中国人ファン」という設定で電話出演し、ゲストのアグネス・チャンとデタラメの中国語で会話した放送が大評判になった。その後、裏番組の『パックインミュージック』(TBSラジオ)火曜日(パーソナリティは林美雄)のデタラメでナンセンスなニュースを真面目なニュース風に紹介するコーナー「苦労多かるローカルニュース」などに呼ばれるようになった。タモリはこのコーナーでニュースを読み上げる林に合わせデタラメ外国語で同時通訳をしていた。また、高の紹介で『前武のヤングアップ』(NET・現テレビ朝日)の前説を務める。前田武彦はその姿を見て「面白いんだけどねえ……TVではダメだろう」と感想を漏らした。
▼初めて呼ばれた学園祭は京都大学の「11月祭」。山下洋輔、筒井康隆、高信太郎とともに出演。「京大ということでブラックユーモアに対して自由な考えを持った方ばかりだと思う」と前置きしつつ当時大きな国際問題になっていた事件を題材に架空の取り調べの様子などを演じ大ウケだったという。しかし、責任者の学生との話し合いに食い違いが生じ、費用はほとんど持ち出しに。その結果、「オフィス・ゴスミダ」は「自らの非力を認め解散」した。タモリはその後80年代初頭まで学園祭に引っ張りだこに。
▼ビートたけしがツービートとして『ライバル大爆笑!』(テレビ東京)でテレビデビュー。後にライバル同士と目されるふたりは、奇しくも同じ年にテレビデビューしている。
▼笑福亭鶴瓶の『サンデー・フレッシュわいのわいの90!!』(MBSラジオ)にゲスト出演。これがその後長きにわたって盟友関係となる鶴瓶との出会い。

1976年(31歳)

▼1月15日、明石家さんまが『11PM』(日本テレビ/よみうりテレビ)で、テレビデビュー。さんまが「俺のほうが先輩」というとタモリも「素人時代にさんまをテレビで見ていた」と返すのが定番の流れだが、実際にはさんまは芸人としては先輩だが、テレビタレントとしてはタモリの後輩にあたる。
▼2月、「銀座でチャンバラトリオを観る会」(銀座中央会館)を会費1000円で開催。タモリは赤塚不二夫のスーツを借り、メガネ姿で司会を務めた。ちなみに後にフルオーダーメイドで作ったスーツには、「フェラチオ・ボッキーニ」という刺繍が入っているという。
▼2月11日、坂田明の体に「ハナモゲラ歌唱法」が“宿る”。河野典生の自宅で行われた8時間超のフリーセッション「紀元節セッション」(山下洋輔・坂田明・奥成達・小山彰太・平岡正明・柏原卓)の末、突如、坂田明の口からアフリカ調のポリリズムに乗って意味不明の言葉が発せられる。そのまま山下らは「ジャック」になだれこみ、居合わせたタモリとともに『ソバヤ』が誕生した。
▼3月、「ジャックの豆の木」で坂田明との「タモリのフランス文学教授VS坂田土方」のフランス文学論争が行われる。これもタモリ「3大セッション」のひとつに数えられる。大学教授になりすましたタモリが、たまたま居合わせた学生を欺いていた。
▼4月9日、『空飛ぶモンティ・パイソン』(東京12チャンネル・現テレビ東京)放送開始。「The TAMORI Show」という数分間のコーナーが用意され、タモリ初のレギュラー番組となる。小川町の日立のスタジオで収録。通りを歩いている学生をADが呼び止め観客として参加させ、「国際麻雀大会」「誰でもできる指揮者・入門」「各国のエレベーター・ガール」「中国におけるオカマの批判」「NHK教養講座」など3~4分のネタを、毎回6~7本収録していた。
▼10月頃から『空飛ぶモンティ・パイソン』の裏番組だった『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ、73年10月5日~79年6月29日)に、「タモリのなんでも講座」で出演。ちなみにせんだみつおとザ・デストロイヤーとタモリの3人の楽屋が一緒だった。和田アキ子と初共演となる。後に『いいとも』などで和田の耳に息を吹きかけ、女性っぽい仕草を引き出すのが定番のギャグ。
▼10月6日、『タモリのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)開始。水曜1部(深夜1時~3時)を担当。提供読みでは「社長の顔がデカい」角川書店グループ、「股間の恋人」B.V.D.フジボウなどと勝手にキャッチフレーズをつけていた。さだまさし・五木寛之・オフコースなど「日本の湿った文化風土」を痛烈に批判し、他にも名古屋人、映画評論家など各方面に毒づいていた。初代ディレクターの岡崎(近衛)正通は早稲田大学モダンジャズ研究会出身。放送作家の中には秋元康もいた。いとうせいこうも一時ADを務めた。どんなに多忙でも、またそれゆえ局サイドから促されても、休みを取ることはしなかった。この番組で「放送における自分の乗り方、乗せ方というのが初めて分かった」[3]
▼10月、なぎらけんいち(現・なぎら健壱)の日本青年館コンサートに司会者として出演。その様子は76年12月リリースの2枚組LP『永遠の絆 なぎらけんいちリサイタル LIVE AT 日本青年館』(後にCD化)の冒頭で聞くことができる。
▼10月24日、草野球チーム「ソークメナーズ」の志賀高原バス旅行で、9時間にわたるバスガイドを敢行。これが「3大セッション」の3つ目である。ちなみに野球の試合でもタモリは真剣。ボールをよく見てフォアボールを選んだり、次の打者が内野ゴロでも、持ち前の俊足で1塁から3塁まで走塁するなど。
▼12月、愛川欽也司会で75年から3年間続いた年末恒例の『お正月映画全部見せます』(日本テレビ)に、2年目からタモリ、小松政夫、団しん也がレギュラーに加わる。
▼12月30日、『オールナイトニッポン』4時間SPで、六本木「フー」での忘年会を生中継。坂田明、当時別の曜日を担当していた稲川淳二、志賀正浩なども含む約20人がどんちゃん騒ぎ。即興で「オールナイトニッポン・ブルース」が生まれた。なお、この音源は2002年に『ON AIR オールナイトニッポン パーソナリティーズヒッツ』(ポニーキャニオン)として一部CDに収録された。ちなみに当時福島の高校生だった大友良英は番組のファンで、ネタハガキや自作音源を頻繁に投稿しており、特にこの日の放送を聞いた時は「なんて大人の世界はいいんだろう」と大きなインパクトを受けている。
▼筒井康隆の短編小説を題材にした山下洋輔トリオのLP『家』に「ハナモゲラ天気予報」で参加。タモリ初の音源となる。伊勢昌之・坂田明・向井滋春・近藤等則・大貫妙子・寺尾次郎・村松邦男らとともに、筒井もナレーションで参加。2008年にCDで再販。
▼山下洋輔と別府温泉に行った際、深夜の大浴場でワニの形態模写をする。それを皮切りに山下と動物モノマネの応酬に。その話が拡がり、「ジャックの豆の木」でも動物モノマネが大ブームに。コンドルの着地やイグアナ、ハエ、ナマケモノ、オットセイなどが生まれる。ちなみに上野動物園に「タモリ」というイグアナがいたという。

1977年(32歳)

▼1月、髙平哲郎が赤塚不二夫と再会し、演出家の滝大作を紹介。これにタモリが加わる形で「面白グループ」が結成される。毎週3回以上宴会を開催、そこで生まれたアイデア等を発表していこうという趣旨。この頃赤塚は「ジャックは長谷邦夫の縄張りだから」と遠慮して、新宿の「ひとみ寿司」に通っていた。なお、正式メンバーはこの4人だが「飲み仲間全部が面白グループ」という考えにより堺正章、小松政夫、団しん也、所ジョージ、山本晋也、日高はじめ、喰始、河野洋、研ナオコ、たこ八郎、三上寛、柄本明、ALFEE(現THE ALFEE)、劇団東京ヴォードヴィルショーらもそのメンバーとされる。
▼2月、書籍『タモリのカセット面白術 もてる!ウケル!きわめつけ実例94』(21世紀ブックス/主婦と生活社)刊行。「実はぼくのタレントになったきっかけは、ことごとくカセットによるところが多い」と、「カセットで面白く遊べる術」をレクチャーする内容。
▼2月、『オールナイトニッポン』で志賀高原のスキー場から生中継。2部の松山千春も参加してホテルの大風呂からも中継。「マイクにスキンをかぶせて千春のオチンチンを叩いて遊んだり」していた。
▼3月、憂歌団のライブアルバム『生聞59分』発売。ライナーノーツに「異色対談 相倉久人×タモリ一義」収録。
▼3月7日、日本喜劇人協会主催の舞台「喜劇復活祭」(新宿コマ劇場)に出演。(後日、日本テレビ『木曜スペシャル』で放送)
▼3月20日、ファースト・アルバム『タモリ』(東芝EMI)発売(95年CDとして再販)。髙平にタモリを紹介されたアルファレコードのジミーこと後藤順一が、村井邦彦社長らに中華料理屋の個室でタモリのネタを生で見せる会を開き、制作が即決したもの。しかしレコード倫理委員会から「中国を茶化している」とクレームが付き発売が一時中止されていた。この騒動でタモリはその委員会に慶応大学教授がいたことを知り、『オールナイトニッポン』で「大学対抗悪口合戦」が始まる。同番組のED曲でもあった「ソバヤ」のレコーディングには打楽器の著名なミュージシャンが集結。しかしディレクターが趣旨を説明しても理解されず、とりあえずリハーサルを行ったところ、最後が「ソバヤソバーヤッ!」で劇的にピタッと終わった。これがそのまま最終テイクとなる。なお、演出を担当した宮住俊介(元アルファ・レコード)によれば「四カ国語マージャン」が「第一回テーブル・ゲーム世界選手権大会」なのは「麻雀」という単語が当時のレコード倫理協会におけるNGワードだったからだという。この発売を記念して19日~24日まで「タモリ・ボードビル・ウィーク」(紀伊国屋ホール)を開催。東京ヴォードヴィルショーの芝居とタモリショーの二本立てだった。
▼3月~6月、キャノン「110EDデートマチック」のCMに出演。アイパッチ姿で「今晩は。春はハナモゲラ」「日付はヘケモシタ」と日付が写るカメラをハナモゲラ語で宣伝。
▼4月1日、「第1回冷し中華祭り」(よみうりホール)開催。これは初代会長となる山下洋輔の「冬に冷し中華を食べられないのはおかしい」という思いから、筒井康隆らと75年に結成された「全日本冷し中華愛好会(全冷中)」のイベント。「開会宣言」に筒井康隆、タモリは中洲産業大学の「タモリ一義」として「冷し中華思想の変遷」を講演、「演奏」に山下洋輔トリオ、「ゲストスピーチ」には高信太郎、黒鉄ヒロシ、長谷邦夫、「ジャックの豆の木」のA子ママ、ジャズ評論家の平岡正明・奥成達・髙平。「会長挨拶」では山下が、実の兄が冷し中華のタレを作る会社に務めていることを認め「全冷中の会長としてこれ以上在位することは、いたずらに会員諸君の疑惑をかきたて会の健全なる運営と発展を阻害するものであると判断し、ここにいさぎよく身を引くことを決断したものである」として会長を辞任。筒井が2代目会長に推挙され就任した。「抽選会」では「ソバヤ大合唱」して閉幕。このライブにあわせて書籍『空飛ぶ冷し中華』(住宅新報社)が刊行。会報も4号まで発行された。
▼4月29日、『ザ・スーパーパロディ淳子・タモリの絶叫!ハナモゲラ』(TBS)放送。
▼7月1日、「ジャックの豆の木」閉店。それに伴い『宴会の極致、水上の夜は更けて』と題した水上温泉行一泊のバスツアーが実施され、タモリは坂田明とともにバスガイドを務める。「ジャック」閉店後、山下らは四谷の飲み屋「ホワイト」へ。赤塚・団・タモリ・小松・所・滝らは新宿二丁目の「ひとみ寿司」に分かれていった。なお一時期ビートたけしも、新宿ゴールデン街でタモリらの仲間と飲んでいたことがあった。しかし「あのシャレた笑い」が肌に合わず離脱。
▼8月11日、『徹子の部屋』(テレビ朝日)初出演。ラテ欄は「居候入門・Mrタモリ」。翌年以後、年末恒例のゲストとなり番組最多出演を果たしている。
▼8月21日、『題名のない音楽会』(テレビ朝日)で、「必見!タモリの音楽教室」と題した企画で、カラヤンをもじった「ヘルベルト・フォン・タモヤン」を名乗り、燕尾服姿で「カルメン」序曲を指揮。さらにピアノの弾き語りでジャズの変遷を講義し、100人近くのコーラスを従えデタラメ中国語でベートーベンの「第九」を歌い上げた。「さすがにあんときは練習したよねぇ、はじめて」[4]
▼9月10~18日、赤塚不二夫・作の舞台「ギャグゲリラ バカ田大ギャグ祭」(渋谷東横劇場)にゲスト出演。演出は松浦竹夫。主演は由利徹。
▼10月4日、ドラマ『晴れのち晴れ』(TBS)放送開始(~翌年3月28日)。中島丈博脚本のホームドラマ。タモリは「森田」という役名で眼帯とオールバック姿で出演。西田敏行とコメディパートを担当した。
▼10月11日、『飛べ!孫悟空』(TBS)放送開始(~翌年3月27日)。「コピーパペット」(実在の人物に似せた人形)を使った人形劇で、『西遊記』の三蔵法師一行をドリフターズが演じた。タモリはヘレヒッパリケ大魔王役でゲスト出演。
▼10月29日、『輝け!第1回いたいけ祭り』(渋谷公会堂)を面白グループが主催。
そのチラシには「ワニさん大集合/幻の名コント“仁丹”/絶品赤塚VSタモリのろうそくショー/中州産業大学講演会/満足問題研究会大合唱/立体世界の放送局/マカ不思議オカマの女学生、などなどテレビでは絶対に見られない、門外不出の芸を劇場初公開」とあり、タモリの他、堺正章・小松政夫・由利徹・室田日出男・川谷拓三・野坂昭如・赤塚不二夫・赤瀬川原平・奥成達・高信太郎・長谷邦夫・団しん也・東京ヴォードヴィルショー・たこ八郎らが出演したが、集客には大失敗。
▼11月、上記イベントに関連して、書籍『空飛ぶかくし芸』(住宅新報社)刊行。著者名義は面白グループ(滝大作・赤塚不二夫・髙平哲郎・タモリ一義)
▼11月、『コント大運動会』(ヤクルトホール)開催。タモリ・チャンバラトリオ・東京ヴォードヴィルショーの合同公演。
▼ピラニア軍団(川谷拓三・室田日出男・小林稔侍など殺られ役・悪役の俳優が結成していた集団)が三上寛プロデュースでリリースしたLP『ピラニア軍団』の発売記念イベント(大阪)で、タモリ司会。
▼この頃『オールナイトニッポン』で、当時一世を風靡した都市伝説「ナンチャッテおじさん」に関し、どちらが先に着目したかを巡って、土曜深夜パーソナリティの笑福亭鶴光とバトルになる。

1978年(33歳)

▼1月、この頃からしばらく、正月は髙平の軽井沢の別荘で過ごすのが恒例になる。
▼1月、書籍『タモリのケンカに強くなる本』(ベストセラーズ)刊行。明らかに、温厚な本人が書いたとは思えないケンカのハウツー本。吉田豪は「中身がないのがタモリ本の特徴」と評している。
▼1月、『オールナイトニッポン』で「ネクラ」「ネアカ」という造語を提唱。後に流行語となる。
▼3月11日~15日、赤塚不二夫・同行カメラマン國玉照雄と3人で西サモアへ。その模様は94年刊行の『赤塚不二夫とタモリの西サモアに行ってこれでいいのだ』(講談社)に詳しい。タモリらの動物モノマネは現地の人に大ウケだったが、十八番のイグアナだけはウケなかった。なぜならサモアにイグアナはいなかったから。帰国後、タモリには永住権が与えられたという。
▼3月21日、映画『喜劇役者たち 九八(クーパー)とゲイブル』公開。井上ひさしの小説の映画化で脚本は田坂啓、監督は瀬川昌治。タモリは苦楽芸振役で愛川欽也と共演。本作を「小森のおばちゃま」こと小森和子が「金と時間のムダ」と酷評。タモリはそれ以降映画評論家を口撃していたが、誤解だと分かり意気投合。『オールナイトニッポン』にゲスト出演した際、小森とセックス談義に花が咲く。「かなりひどいこと書いてあったの。でも、それはおばちゃまが電話で原稿送って、字数をカットされたから悪いところだけ残ったわけね」[5]
▼4月、『赤塚不二夫のギャグ・ラジオ』(TBSラジオ)放送開始。タモリ・高見恭子・所ジョージらが出演し時事コントなどをしていた。
▼4月26日、「第ニ回冷し中華祭り」(平和島温泉)開催。翌年の「全冷中冠婚葬祭の葬儀編」(六本木ピットイン)で全冷中は解散。後年、水道橋博士がタモリ本人から聞いた解散の理由は「あれは俺が忙しくなったんだよね」。
▼5月16日、ドラマ『三男三女婿一匹』(TBS)の第2シリーズ放送開始(~10月10日)。タモリは「ヤモリ」というアダ名の、病院に勤める暗い薬剤師「八六(やろく)」役で出演。共演した森繁久彌の「権威を利用して笑いを取る姿」に感銘を受ける。またヨット好きということで意気投合、その趣味を大切にするよう進言された。
▼6月18日、『青春の日本列島』(東京12チャンネル・現テレビ東京)でタモリの偽ドキュメント「タモリ・涙と笑いのウソ」放送。ギャラクシー賞月間賞に選出される。
▼6月、面白グループによる書籍『ものまね魔』(廣済堂出版)、『空飛ぶ冷し中華〈part 2〉』(住宅新報社)刊行。
▼6月、『オールナイトニッポン』で近田春夫と大ゲンカ。これは飲み屋での近田春夫とのケンカごっこを週刊誌が真に受け、記事にしたのをきっかけに、「番組のゲストに呼び仲直りする」という設定で、またケンカごっこを始めたもの。
▼サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』を発表。デモテープを聴いたタモリはその歌詞、特に「ちょっと瞳の中に消えた“ほどに”」のわけのわからなさに驚く。翌年春の『ザ・ベストテン』(TBS)で共演、タモリは「勝手にシンドバット」のハナモゲラ語バージョンをブルマー姿で熱唱した。
▼7月、『タモリ=所ジョージ・全国冗談コンサート・北から南まで』(東京・仙台・大阪など)を開催。タモリは当時、所を公私共に「弟分」的な存在として可愛がっていた。同年発売の所のセカンドアルバム『ジョージのセロリ・パセリ』にはタモリ作詞の「けさめらの親王むれさのはけ姫に詠む」が収録されている。また後に結婚の際、タモリ夫妻が仲人を務めた。
▼7月24日~28日、『オールナイトニッポン』から生まれた企画で5日間にわたり「中洲産業大学 夏期講座」(高田馬場アートスペース)開催。ツービート・所ジョージ・内藤陳・赤塚不二夫・山下洋輔らが講師を務める。観客は応募者の中から500人が“入学試験”により選抜された。「中洲産業大学」の名称は福岡の「中洲」に「産業」をつけたらいかがわしくなって響きが良いというところから。髙平によると「京都産業大学」を元にしたとも。タモリ教授はパンクスのように自毛を逆立てた髪型、右眼側だけの黒メガネ、マジックで黒く塗った前歯で「ウヒヒヒ」と笑いながら講義。
▼8月6日、『サンデーお笑い生中継』(TBS)放送開始(~翌3月25日/日曜12:00‐12:45)で東京方の司会を担当(大阪方の司会は横山やすし)。
▼10月、書籍『タモリのちょっとアレですが』(エイプリル・ミュージック)刊行。
▼12月2日、映画『博多っ子純情』公開。長谷川法世原作の同名漫画の映画化。タモリ他、多くの福岡出身者が出演している。
▼12月20日、LP『タモリ2』(東芝EMI)発売。もともとは「戦後日本歌謡史」(後の『タモリ3-戦後日本歌謡史-』)が企画され、すでに録音もされていたが、「著作権に抵触する」と発売が見送られたため、現在の『タモリ2』の内容となった。
▼赤塚不二夫と全日本満足問題研究会(赤瀬川原平・奥成達・高信太郎・長谷邦夫ら)によるLP『ライヴ・イン・ハトヤ』(ビクター)にゲスト出演。なお、タモリのLPにも参加している「サウンド・エフェクター」の「赤塚不二夫」は漫画家の赤塚とは別人。このふたりはこのアルバム制作時に、初めて対面する。
▼ラジオ『BCLワールドタムタム』(ラジオたんぱ)放送開始(~83年)。アシスタントは富永陽子。
▼早大ジャズ研OB20数名が資金を出し合い「ジャズスポットJ」がオープン。タモリは取締役宣伝部長。店主はバードマン幸田。幸田はベーシストだったが、客の少なさを打開するためなぜかモノマネを始めたという。

1979年(34歳)

▼1月1日、『刑事マチャアキ謎の犯人タモリを追え!!』(テレビ朝日)で、初めて元日のテレビに登場。
▼2月、『定本ハナモゲラの研究』(講談社)刊行。筒井康隆・山下洋輔・赤塚不二夫・赤瀬川原平・奥成達らとの共著。タモリは「戯曲・タモリ書記」を執筆。新しい笑いとしての「ハナモゲラ」をその起源にまでさかのぼってその発展史を解明した「問題の書」。なお、「ハナモゲラ」を命名したのは坂田明。
▼3月、『夢の銀河鉄道』(テレビ東京)放送。寺山修司になりきったタモリが1時間にわたりニューミュージックの歴史を紹介。
▼4月3日、『ばらえてぃ テレビファソラシド』(NHK)放送開始(~82年3月13日)。永六輔が「NHKでしかできないものを」と、『夢であいましょう』の現代版を目指して制作。タモリは番組開始当初はゲスト出演。80年4月頃からレギュラーに。番組後期の1年余り、永、加賀美幸子とともに司会を務める。進行役の「日本のお母さん」(タモリが命名)こと加賀美幸子とのコンビを、永は「この二人が並んで出てくるだけで、チグハグなおかしさがただよい。珍しいものを見るようだ(原文ママ)」と述べた[6]。タモリは「加賀美さんは、テレビの画面の枠の線をきっちり引く役割で、僕はその線を崩して外側に出よう、外側へ出ようとする役割。その対象が見る人によっては面白かった」と分析[6]。視聴者からはその「バランスがおもしろい」という肯定的意見もあれば、加賀美への「タモリに負けるな」という激励や「からかわれて痛々しい」という同情、またタモリのサングラス姿に多くの苦情が寄せられたり、「正しくは『ドレミファソラシド』です」など、賛否ともに毎週投書が300通近く届く実験的番組だった。「その当時、(NHKに)出れないギリギリと言われたのがおすぎとピーコ(笑)」[7]。井上陽水もこの番組でNHK初出演。無名時代のツービートが漫才をし、内海桂子好江が批評するという企画もあった。なお、レギュラーだった近藤真彦がゲストの美空ひばりに「おばさん歌がうまいね」と言い放ったという有名なエピソードはこの番組での出来事と言われている。
▼6月23日、映画『下落合焼とりムービー』公開。赤塚不二夫が企画・原案・制作・脚本を手掛け、山本晋也が監督を務めた。所ジョージ主演。タモリは奇妙なボーイ役。
▼7月、髙平哲郎とニューヨークへふたり旅。この体験は翌年3月に刊行された『行ってから読むか読んでから行くかタモリのNew York旅行術』(講談社)に。タモリはNYを「冷たい街というか、横で人間が死んでいてもみんな知らん顔するような」感じが面白かったと振り返っている。
▼7月、『金曜娯楽館』(日本テレビ)放送開始(~80年9月)。この番組でタモリは2度特集され密室芸を披露している。タモリはこの番組のディレクターを務めた棚次隆(後に『今夜は最高!』などにも参加)を「自分でネタまで作っちゃう」「テレビ技術もやたら詳しい」「新しいテレビの映し方も自分で考えちゃう」「自分で譜面もとるし、耳が抜群にいい」と絶賛している。[8]
▼8月8日、『11PM』(日本テレビ)で「赤塚不二夫のギャグ・テレビ」放送。「宴会芸の極致」としてタモリ・小松政夫による電車の音真似、中国・ドイツのターザン、小松・団とともに「3頭の鷲」、イグアナ、ビーバーの真似、小松との漫才、赤塚とともに「製材所」の音の違いなどの芸を披露。なお、タモリはそれ以前も『11PM』にたびたび出演。初登場は75~76年頃の「ダッチワイフとダンス」。ダッチワイフとタンゴを情熱的に踊った。
▼8月15日、ドラマ『家路~ママ・ドント・クライ』(TBS)放送開始(~11月7日)。京マチ子・郷ひろみ・浅野温子らが出演したホームドラマ。中華料理店で働く調理人・庚朱慶(こうしゅけい)役。犬猿の仲の後輩コック役に近田春夫。
▼10月、ラジオ『土曜の夜はドヨヨ電リクベルジャン!ジャン!ジャン!』(ニッポン放送)放送開始(~80年3月)。パートナーは石川ひとみ。
▼10月3日、『チャレンジ・ザ・ギネス’89』(フジテレビ)放送。タモリは眼帯姿でリポート。
▼10月6日、『欽ちゃんのドンとやってみよう』(フジテレビ)にゲスト出演。この頃、タモリは放送作家の大岩賞介に誘われて、萩本欽一がパジャマ党の作家たちと仕事をしていた家に突然訪れている。タモリは萩本もいるとは知らなかったというが、突然の訪問に驚きつつも迎え入れた萩本や作家を前に数時間にわたり持ちギャグを繰り広げ、作家たちを笑わせ続けた。若い作家たちがタモリを絶賛し続けるのを聞いて萩本は「俺、あれからタモリが嫌いになったんだ(笑)」[9]
▼11月14日、ドラマ『家路PART2』(TBS)放送開始(~翌年2月6日)。この頃、ドラマの撮影で忙しさのピーク。寝る時間が2~3時間しかなかった。「自分の能力の限界を超える」ような多忙なスケジュールに。「これでオレは生きて年を越せるんだろうかって(笑)」[3]
▼12月2日、植草甚一死去。後に植草の3~4000枚近くのレコードコレクションが四散してしまうのを危惧して全部まとめて買い取り、自宅の一室をその保管にあてていた。
▼プロ野球の雨傘番組として『雨に笑えば』(フジテレビ)収録。研ナオコ・斎藤晴彦・松金よね子・東京乾電池らと共演。この時、横澤彪と出会う。
▼12月31日、『第30回紅白歌合戦』(NHK)に応援ゲストとして出演。『八つ墓村』風の白装束で奇声とともに登場した。

1980年(35歳)

▼1月1日、『新春かくし芸大会』(フジテレビ)出演。
▼1月、千野栄一著『言語学のたのしみ』(大修館書店)刊行。「タモリの言語学」収録。タモリのハナモゲラ語などの表現をチェコの作家カレル・チャペックと比較して論じている。
▼2月2日、ラジオ『タモリ博士の自叙伝的ジャズ講座』(FM東京)放送。「誰にでも出来るチック・コリア風ピアノ奏法」などを実演。
▼3月3日、松岡正剛と対談。話が盛り上がり、そのままイタリア大使館でのレオ・レオーニの奇書『平行植物』の翻訳出版記念レセプションに参加。「世界的エンターティナーのタモリが、ポリグリット(多国語能弁)の大スピーチをこれからやります」という紹介から独演場と化し、イタリア映画のマネなど各種の芸を披露しバカウケ。タモリはこの対談を「言葉に不信を抱き、言葉を壊そうと思った個人的ささやかな体験を人に話したのは初めて」「ボクには忘れられない対談であった」と振り返っている。この対談は6月に『愛の傾向と対策』(工作舎)に収録(文庫化に際して『コトバ・インターフェース』[大和書房]に改題)
▼3月11日「火曜ワイドスペシャル『スター作詞作曲グランプリ』」(フジテレビ)で、歌手3人ずつでグループを作り、それぞれ作詞・作曲・歌を担当するという企画に、タモリ(作詞)・小野ヤスシ(作曲)・団しん也(歌)が添え物的に出場。『夜……酒組』という曲を披露し、あろうことか一般審査で優勝、レコード化された。「関係者青くなってるんだよね。だって周りは凄いスターばっかりいるんだよ。その中にお笑い三人組が……。俺たちも役目知ってたからね(苦笑)」[10]
▼3月28日、ドラマ『真夜中のヒーロー』(日本テレビ)放送。大場久美子主演。タモリはダンス教室に通う婦人のヒモで変態チックな男・会田役。
▼3月、『24時間テレビ』(日本テレビ)のCM。竹村健一のモノマネで「地球上に何百人という飢えた人たちがいるのです。この人たちに君たちはなにかをしてあげようという気持ちはないのか」「私にはありません」
▼4月4日、『ドラマ人間模様「詐欺師」』(NHK)放送開始(~4月27日、全4回)。タモリ初の主演ドラマで、共演は大谷直子・ハナ肇ら。原作は佐木隆三、脚本は中島丈博。タモリは「俺、芸能人なんなかったら、多分詐欺師になってる」[11]と語っているが、ドラマ初主演が詐欺師役だった。
▼4月12日、『のってシーベンチャー』(テレビ朝日)放送開始(~6月28日)。帆船シーベンチャー号を舞台に船長タモリ、女性ジャーナリスト・ナトリ(名取裕子)、毎回ビキニ姿で登場する沢田和子らが繰り広げるバラエティ。メロドラマやドタバタ劇を通じて世界各地の港や風景、料理などを紹介。脇役に松金よね子・斎藤晴彦・当時無名の柄本明を起用するも3カ月で終了。
▼4月12日、『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)に、デビューからわずか5年で審査員として出演。「どうやって本流にすわーっといって同輩ヅラ、また先輩ヅラするかっていうのが70年代の一大命題だった」タモリ。その「なりすまし」が「われながらうまくいった」と成功を実感した抜擢で、自分よりも芸歴が長い人を「偉そうに」審査[12]。九十九一・小柳トム・アゴ&キンゾー・シティボーイズらがグランプリ獲得。九十九一はタモリの後に赤塚不二夫邸に居候した。同じくグランプリのとんねるずも赤塚不二夫やタモリに支持された。「わけが解らないの好きなんだよね。何か笑っちゃう」[13]
▼4月13日、萩本欽一から引き継ぐ形で、谷隼人(岩谷隆広名義)と共に『スター誕生』(日本テレビ)の司会に。81年4月まで。
▼5月3日、『第2回欽ちゃんの爆笑仮装コンテスト 全日本仮装大賞』(日本テレビ)放送。タモリはこの第2回と第3回で審査員を務めた。
▼6月3日、『雨に笑えば1980』(フジテレビ)放送。小松政夫と猿回しコントなどを披露。
▼6月29日、「名人劇場『タモリが惚れた名人芸 瓢右衛門ってなんだ?』」(フジテレビ)放送。
▼7月5日、映画『はだしのゲン PART3 ヒロシマのたたかい』公開。タモリは赤塚不二夫とともにカメオ出演。
▼9月3日、ドラマ『ミセスとぼくとセニョールと!』(TBS)放送開始(~12月24日)。郷ひろみ・藤竜也主演。タモリは下宿人で漫才師の役。その相方役は常田富士男。演出は久世光彦ら。
▼9月28日、『すばらしき仲間「タモリの笑ってタモレ!」』(TBS)放送。赤塚不二夫・三上寛らと出演。
▼10月、『みんなのうた』(NHK)で「ミスター・シンセサイザー」(作詞・作曲:田中正史)を歌う。ちなみにタモリは日本でのシンセサイザー奏者の第一人者でもある冨田勲のアルバム『月の光』(74年)は発売後すぐ購入し愛聴していた。
▼10月、作詞を手掛けた早稲田大学の応援歌「ザ・チャンス」が、「第28回稲穂祭」で披露される。早稲田の応援歌なのに歌詞に「早稲田」が入っていないのが特徴。
▼10月5日、『タモリの突撃ナマ放送』(テレビ東京)放送開始(~翌年6月28日)。奇しくも『いいとも』以前に、スタジオアルタからの正午の生番組で司会を務めていた。
▼10月6日、ラジオ『だんとつタモリ おもしろ大放送!』(ニッポン放送)放送開始。プロデューサーのドン上野は「タモリを主婦向きタレントにするんだ」という意識で始めた。実際に横澤彪はこの番組を聴いて主婦層にも受け入れられると確信。『いいとも』へのオファーのきっかけのひとつになった。
▼10月19日、『雨に笑えば』(フジテレビ)放送。スクールメイツの格好で踊ったり、四カ国語マージャンを披露。
▼11月、『オールナイトニッポン』で、「NHKつぎはぎニュース」のコーナーが始まる。約2カ月ほどでNHKからクレームが来た結果、「(法律的に)悪いというのはわかっとります」「子どもたちの遊びにどうして巨大な権力を傘にして(正論を)言わなきゃいけないの? どれだけNHKが損失を被ったの?」と恨み節を語って終了。
▼11月8日、大橋巨泉司会の『クイズダービー』(TBS)で(正答者に賭ける側の)出場者に。以後10数回出演。
▼12月20日、映画『'80年アニメーション ザ・ベストテン』公開。司会のタモリと児島美ゆきが『ザ・ベストテン』のパロディ風に、当時の人気アニメを紹介するという映画。監督はドン上野。
▼12月31日、『第31回紅白歌合戦』(NHK)に応援ゲストとして出演。ウサギの頭にタンクトップ姿でフランク永井と菅原洋一とともに登場。「シェイクアップ体操」という意味不明なネタで応援。なお、この時の司会は黒柳徹子と山川静夫アナウンサー。

(つづく)
―#2 1975年(30歳)~1980年(35歳)―



*次回:2014年3月27日(木)掲載

2014/03/20 更新












[個人ブログ「てれびのスキマ」での『タモリ学』関連エントリ]

タモリ、又吉、東京ポッド、マツコ……それぞれの「東京」論
2013年10月21日の『タモリ学』
タモリと吉永小百合が逢った日
タモリと猫と犬
「『大タモリ年表』第2弾公開」 タモリのデビューと『徹子の部屋』
「あれは生命の最大の肯定」タモリが絶賛した小沢健二
【「メルマ旬報」芸人ミステリーズ・再録】「幻のタモリ作品を追う。」
「大タモリ年表」とは何か?
『COMIC CUE』という祭り
3月26日『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』発売決定!





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『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)

タモリをもっと知りたくて。

デビュー時から現在までの、タモリの様々な発言やエピソードを丹念に読み解き、その特異性と唯一無二の魅力に迫る。 親しみ深くて謎の多い、孤高の男の実像とは。

タモリは過去や未来にこだわることの不毛さに対し、若い時から(あるいは幼少時から)問題意識を持ち、考えぬいた末に「現状を肯定する」という生き方を選択した。いかに執着を捨て、刹那的に生きることを選べるか。その実践として、「タモリ」がある。(本文より)

イラスト:小田 扉


戸部田 誠(てれびのスキマ)(とべたまことてれびのすきま)

78年生まれ、いわき市在住のテレビっ子。お笑い、格闘技、ドラマ好き。『週刊SPA!』「日刊サイゾー」「水道橋博士のメルマ旬報」で連載中。『splash!!』『TVBros.』などに寄稿。近著に『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか~絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コアマガジン)がある。
個人ブログ「てれびのスキマ」
http://littleboy.hatenablog.com/

[作者より]
3年近くかかってようやく『タモリ学』完成しました。精魂込めて書きました。正直言って自信作です! 是非、手にとって読んでみてください!

 
 



【出典一覧】

[1]『逢えばほのぼの 檀ふみ対談集』檀ふみ/中央公論社(82)
[2]『徹子の部屋』テレビ朝日(12・12・27)
[3]『対談 「笑い」の解体』山藤章二/講談社(87)
[4]『これでいいのだ。 赤塚不二夫対談集』赤塚不二夫/メディアファクトリー(00)
[5]『タモリと賢女・美女・烈女』家庭画報 編/世界文化社(82)
[6]『やわらか色の烈風』加賀美幸子/筑摩書房(86)
[7]『ブラタモリ』NHK(11・12・8)
[8]『愛の傾向と対策』タモリ、松岡正剛/工作舎(80)
[9]『笑っていいとも!』フジテレビ(14・2・14)
[10]『笑っていいとも!増刊号』フジテレビ(13・7・28)
[11]『笑っていいとも!』フジテレビ(02・12・26)
[12]『われらラジオ世代』ニッポン放送(13・10・24)
[13]『FNS27時間テレビ』フジテレビ(12・7・21)

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