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*三人の物語がスタートする第一章、どうぞ<ためし読み>してみてください!
Chapter 1
父が出ていったあと、わが家は母とぼくの二人だけになった。父はぼくに、新しい奥さんのマージョリーとのあいだにできた赤ん坊のことを家族だと思ってほしいと言った。そして、マージョリーの息子リチャードのことも。リチャードは誕生日がぼくより半年遅いのに、運動音痴のぼくと違って、どんなスポーツも器用にこなす。でも、うちの家族は母のアデルとぼくだけ。それでおしまい。赤ん坊のクロエを家族に含めるぐらいなら、ハムスターのジョーを家族にするほうがまだましだ。
毎週土曜の夜になると、父がぼくを迎えにきて、一家そろって〈フレンドリー〉へ食事に出かける習慣だったが、父はいつも、車のバックシートにぼくと赤ん坊を並んですわらせたがった。レストランでは、ポケットから野球カードの束をとりだし、ボックス席のテーブルに広げて、リチャードとぼくで分けるように言う。ぼくは自分の分をいつもリチャードに譲っていた。当然だろ? 野球が大の苦手なんだから。体育の先生が、さてと、ヘンリー、きみはブルーチームだ、と言うと、ブルーチームの全員がうめき声を上げたものだった。
ふだんの母は、父のことも、現在父の奥さんになっている女のことも、その息子のことも、赤ん坊のことも、ぜったい口にしなかった。ただ、一度だけこんなことがあった―ぼくはそのとき、父にもらった写真をテーブルにうっかり置きっぱなしにしていた。前の年にディズニーワールドへ連れてってもらったときの、ぼくたち五人の写真だった。母は少なくとも一分ほど、それをじっと見ていた。キッチンに立って、白い華奢な手で写真を持ち、長い優美な首を軽くかしげて、まるで、いま見ている写真に何か重大なむずかしい謎が隠されているような顔をしていた。ぼくたち五人がアトラクションのティーカップにぎゅう詰めですわっている写真にすぎなかったのに。
あなたのお父さん、赤ちゃんの左右の目が不ぞろいなのが気になるでしょうね。母は言った。成長が遅れてるだけで、知的障害ではないと思うけど、検査してもらったほうがいいんじゃない? 頭の弱そうな子に見えなかった、ヘンリー?
ちょっとそうかも。
やっぱりね。母は言った。この赤ちゃん、あなたに似たとこなんてひとつもないわ。
ぼくは自分の役割をちゃんと心得ていた。ぼくの本当の家族は誰なのかを理解していた。母だ。
その日、母とぼくは外出したが、それはめったにないことだった。ふだん、母はどこへも出かけない。でも、ぼくの通学用のズボンが必要だった。
わかった。母は言った。じゃ、〈プライスマート〉ね。まるで、その夏にぼくの身長が一・五センチ伸びたのは、ぼくが母に苦労をかけるためにわざとやったことだと言わんばかりに。まあ、母はそれまでもずいぶん苦労してきた人だけど。
イグニッションに差しこんだキーを母がまわすと、一発でエンジンがかかった。この前ぼくたちが車で出かけたときから一カ月もたっていたことを考えると、これは驚きだった。母はいつものようにのろのろ運転で、まるで道路が濃い霧か氷に覆われているかのようだったが、じつをいうと、いまは夏(新学期が始まる前の最後の日々で、今日はレイバーデイの週末を前にした木曜日)。空には太陽が輝いていた。
長い夏だった。学校から解放されたばかりのころは、長い休みのあいだに日帰りでもいいから海へ行きたいと思っていたが、母に言われた―高速が渋滞するわよ。それに、あなたはあの人(ぼくの父のこと)の肌の色を受け継いでるから、ひどい日焼けになるだろうし。
夏休みに入ってから六月末まで、そして、七月のあいだじゅう、そして、八月が終わろうとしているいまに至るまで、ぼくは何か変わったことが起きるよう願いつづけてきたが、何ひとつ起きなかった。父が〈フレンドリー〉へ連れてってくれて、ときたまリチャードやマージョリーや赤ん坊と一緒にボウリングに出かけるぐらいだった。そうそう、父がみんなをホワイト山脈へ旅行に連れてってくれて、籠を作る工房を見学したり、マージョリーの希望でクランベリーやレモンやジンジャーブレッドの香りの手作りロウソクを売っている店に寄ったりしたこともあった。
それ以外は、夏のあいだじゅう、テレビばかり見ていた。母からトランプのソリティアのやり方を教わり、それに飽きると、長いことほったらかしだった家のなかのいろんな場所の掃除をして、手間賃として五十ドルもらった。ポケットに入れたその金で、パズルの本をもう一冊買いたくてうずうずしていた。いまの時代なら、ぼくみたいな変わり者の子供でもゲームボーイやプレイステーションで遊ぶだろうが、あのころは、ニンテンドーを持ってる家なんてごく一部だった。うちはそのなかに入っていなかった。
当時は女の子のことで頭がいっぱいだったが、それは頭のなかだけのことで、女の子に関してぼくの人生に何かが起こることはなかった。
ぼくは十三になったばかりだった。女とその肉体について、それから、男と女がひとつになったときに何をするのか、四十歳になる前に恋人を作るにはどうすればいいのかといったことについて、なんでもいいから知りたかった。セックスに関してあれこれ疑問があったが、そういう話をするときの相手が母でないことはたしかだった。もっとも、ときには母のほうからそういう話題を出してくる。たとえば、買物に出かける車のなかで。あなたの身体、変化してきてるようね。ハンドルを握りしめたまま、母は言う。
ノーコメント。
母はまっすぐ前を見つめていた。まるでルーク・スカイウォーカーになって、Xウィング・ジェットを操縦しているみたいに。どこかべつの銀河へ向かって出撃―ショッピングモールという銀河へ。
店に着くと、母がジュニアものの売場についてきてくれたので、二人でズボンを選んだ。それから下着もあれこれ選んだ。
靴も必要じゃないかしら。よそへ出かけたときのいつもの口調で、母は言った。つまらない映画だけど、チケットを買ったからには最後まで見ていかなきゃ、というようなものだ。
古い靴でまだ大丈夫だよ。ぼくは言った。心のなかでは、今日の外出で靴まで買ってしまったら、今度ここにこられるのはずっと先になるけど、買わずに帰ればもう一度出かけてこられる、と思っていた。学校が始まれば、ノートに鉛筆、分度器、電卓も必要になる。あとになって、ぼくが靴のことを持ちだし、母から、この前買物に行ったときになぜそう言わなかったのかとなじられたら、ほかにもいろいろと必要なものがあると言えばいい。母も折れるはずだ。
衣類の買物は終わった。ぼくは選んだ品をカートに入れてから、雑誌とペーパーバックが置いてあるコーナーへ行き、コミック誌『マッド』のページをめくりはじめた。ただし、ほんとに見たいのは『プレイボーイ』。そういう雑誌はビニールで密封されている。
商品の列の向こうに、カートを押して通路を進んでいく母の姿が見えた。流れの遅い小川に浮かんだ木の葉のようにゆっくり漂っていく。母がカートに何を入れるのか予測がつかない。まあ、あとでわかるだろう。ベッドの背にもたれて夜の読書をするためのクッション。電池式のミニ扇風機。ただし、電池は買わない。セラミックの動物―ハリネズミとか、そういう種類のやつ―両脇に筋がたくさん入ってて、そこに種をまいて水分を切らさないようにしておくと、そのうち芽が出てきて、動物が緑に覆われる。ペットみたいなものね。母は言った。でも、ケージの掃除に頭を悩ませなくてもいいのよ。
ハムスターの餌は? ぼくは母に催促した。それも買わなきゃ。
『コスモポリタン』の“女が男に知ってもらいたい女のヒ・ミ・ツ”という記事に目を奪われて夢中で読んでいたとき、一人の男がぼくのほうに身をかがめて話しかけてきた。男はパズル本のすぐ横の棚のところに立っていた。編物とガーデニングの雑誌が並んでいる棚だった。こういうものを読みたがるタイプには見えない。ぼくに声をかけるのが目的だったのだ。
ちょっと手を貸してもらえないかな。男は言った。
ここで初めて、ぼくは男に目を向けた。背の高い人だった。首と、シャツから出ている腕に筋肉がついているのが見えた。皮膚が消えたあとの頭蓋骨がどんな形なのか、はっきりわかる顔をしていた。もっとも、この人はまだ生きてるけど。〈プライスマート〉の従業員用のシャツ―色は赤、ポケットにはジェリーという名前―を着ていて、よく見ると、脚から血が出ていた。血はズボンをぐっしょり濡らし、靴にまでしみこんでいる。それは靴というよりスリッパに近かった。
血が出てるよ。ぼくは言った。
窓から落ちたんだ。このときの彼の口調は、まるで蚊に刺された話をしているみたいだった。だから、そう言われても、あまり変に思わなかったのかもしれない。あるいは、何もかもすごく変だったから、この言葉がそれほど気にならなかったのかもしれない。
助けを呼んでこなきゃ。ぼくは男に言った。母さんは頼りになりそうもないけど、ほかにも買物客がたくさんいるから、と思いながら。おおぜいのなかからぼくが選ばれたんだと思うと、うれしかった。めったにないことだ。
みんなをギョッとさせたくないんだ。男は言った。血を見ると怯える人間がたくさんいるからね。何かのウィルスに感染すると思いこむ。わかるだろ。
男が言おうとしていることを、ぼくは理解した。この春に学校で開かれた集会のおかげだ。当時は、人の血液に触れてはならない、命を落とす危険がある、ということしか知られていない時代だった。
きみ、あっちにいる女の人と一緒にきたんだろ? 男は言った。母のいるほうへ目を向けていた。母はいま、ガーデニング用品の売り場に立ち、ホースを見ていた。うちにはホースはないが、いまは庭仕事をしないので必要もない。
きれいな人だな。男は言った。
うちの母さんだよ。
きみに頼みたかったのはね、お母さんの車に乗せてもらえないかってことなんだ。シートに血がつかないように気をつける。どこかへ連れてってもらえないかな。お母さん、おれの力になってくれそうな気がするんだ。
これが図星だったのが、母にとっていいことだったのかどうか……。
どこへ行きたいの? ぼくは男に訊いた。心のなかで思っていた―従業員が怪我をしたとき、買物客に助けを求めなきゃいけないなんて、この店は従業員のことをあまり大事にしてないってことだよね。
きみの家へ行ってもいいかな?
最初は問いかけるような口調だったが、男はつぎに、コミックの『シルバーサーファー』に出てくるスーパーパワーを持ったキャラみたいにぼくを見た。ぼくの肩に手をかけた。がっしりと。
はっきり言おう、坊や、ぜひ連れてってくれ。
そこで、ぼくは男をしげしげと見た。そう言ったときの顎の感じから、どこか痛いところがあるらしいとわかった。顔に出さないようにしているだけだ。顎がきつくこわばっていて、まるで釘を噛んでいるみたいに見えた。ズボンについた血はあまり目立たなかった。ズボンがネイビーブルーだから。店にはエアコンが入ってるのに、男はひどく汗をかいていた。頭の横にも血が細い筋となって垂れ、髪のなかで固まっているのが見えた。
店では野球帽の在庫一掃セールをやっていた。男が野球帽をひとつとってかぶると、血はあまり目立たなくなった。脚をひどくひきずっていたが、似たような人はけっこういた。男は棚からフリースのベストをとり、〈プライスマート〉の赤いシャツの上に着た。値札をはずすのを見て、代金を払う気はないんだとぼくは思った。従業員用の特典か何かあるのかも。
ちょっと待って。男は言った。もうひとつほしいものがある。ここで待っててくれ。
母が世の中のことにどんな反応を示すのか、誰にも予測がつかない。たとえば、宗教のパンフレットを持って家々を一軒ずつまわっている男がいるとしよう。母は大声でわめいてそいつを追い払う。ところが、べつのときには、ぼくが学校から帰ると、そいつがうちのカウチにすわって母とコーヒーを飲んでいたりする。
こちら、ジェンキンズさんよ。母が言った。ウガンダの孤児院のために資金集めをしてらして、その孤児院の話を聞いてほしいんですって。そこの子たちは一日に一回しか食事ができなくて、鉛筆を買うお金もないの。月に十二ドル寄付すれば、わたしたち、アラクっていうこの小さな男の子を助けてあげられるのよ。あなたの文通相手になってくれるかもしれないわ。まるで弟みたいに。
父に言わせると、ぼくにはすでに弟がいるそうだが、マージョリーの息子を弟などと呼べないことは、母にもぼくにもわかっていた。
すごいね。ぼくは言った。母は小切手を書いた。男が写真をよこした。ぼやけた写真。単なるコピーだもの。母はそれを冷蔵庫に貼った。
それから、寝間着の女の人がうちの庭に迷いこんできたこともあった。ずいぶん年をとってて、自分の家もわからなくなっていた。息子を捜していると言いつづけた。
母はそのときもおばあさんを家に入れて、コーヒーを出してあげた。ややこしすぎて混乱してしまうことって、よくありますよね。母はおばあさんに言った。わたしたちがなんとかしましょう。
こういうときは、母が主導権を握る。とてもノーマルに見えて、ぼくもホッとする。コーヒーを飲み、トーストを食べたあと、おばあさんをうちの車の助手席に乗せ、シートベルトを締めて(もしかしたら、母が車を運転したのはこのとき以来かもしれない)、長いあいだ、ゆっくりと近所をまわった。
見覚えのあるものが何かあったら教えてくださいね、ベティ。母がおばあさんに言った。
このときだけは母ののろのろ運転が役に立った。一人の男性がぼくたちに気づき、助手席のベティに気づいて、手をふって招き寄せた。
必死に捜しまわってたんです。母が車の窓をあけると、その男性は言った。親切にしてくださって、ほんとに感謝します。
ご無事ですよ。母は言った。きてもらえてとてもうれしかったわ。またこの方をお連れくださいな。
その女の子、気に入ったわ。助手席側にまわってシートベルトをはずす息子に、ベティは言った。こういう子と結婚すればよかったのに、エディ。あんなあばずれじゃなくて。
そこで、ぼくは男性の表情をたしかめたくて、顔をじっと見た。けっしてハンサムではないが、性格のよさそうな人に見えた。一瞬、母がもう誰とも結婚していないことをこの人に伝える手段があればいいのに、と思った。わが家はぼくたち二人だけ。この人がときどき、ベティを連れて遊びにきてくれればいいのに。
エディって、いい人みたいだね。走りだした車のなかで、ぼくは言った。あの人も離婚してるかもしれない。もしかしたら。
母は日用品売場にいた。近づいていったぼくたちに言った。ついでだから、電球を買っていこうと思って。
よかった、よかった。うちで電球が切れると、そのままほったらかしだ。おかげで、わが家は暗くなるいっぽうだった。キッチンに無事に残っている電球はたったひとつで、それもあまり明るくない。夜中に何か探そうとするときは、わずかな光を得るために冷蔵庫の扉をあけなくてはならない。
この電球をどうやってソケットにはめればいいのかしら。母は言った。わたしじゃ、天井の照明器具に手が届かないし。
そこで、ぼくは血を流している男性を紹介した。ジェリーだよ。背の高い人だという事実がプラスの要素になると思った。
母さんのアデルだよ。ぼくは言った。
おれはフランク。男は言った。
こっちが思っていたのと違う名前が出てくることって、けっこうあるものだ。この人、きっとうっかりして、他人のシャツを着てしまったんだろう。
いい息子さんだね、アデル。フランクが母に言った。親切な子で、車に乗るように言ってくれた。そのお礼に、おれでよければ手伝えるかもしれない。
フランクが言っているのは電球のことだった。
それから、家のなかの用事がほかにも何かあったら、遠慮なく言ってくれ。おれにできないことはほとんどないから。
そこで、母がフランクの顔をじっと見た。野球帽をかぶっていても、頰にこびりついた血が見える。しかし、母は気づいていない様子だった。いや、気づいたとしても、たいしたことではないと思ったのかもしれない。
ぼくたちは一緒にレジを通った。ぼくのパズル本の代金を払わせてほしいと、フランクが母に言った。ただし、いまは手持ちの金がほとんどないので、ぼくに借用証を書かなくてはならないという。野球帽とフリースのベストのことは、レジ係に内緒にしておくつもりらしい。
ぼくの新しい衣類と、散水用のホースと、クッションと、セラミックのハリネズミと、電球と、ミニ扇風機のほかに、母は合板製のバッティングセットも買っていた。ゴムベルトの端にボールがついていて、続けて何回でも打つ練習ができる。
あなたへのプレゼントよ。レジのコンベアベルトにバッティングセットをのせながら、母が言った。
六つのとき以来、こんなもので遊んだ覚えは一度もないということを、わざわざ説明するつもりはなかった。ところが、横からフランクが口をはさんだ。こういう男の子には本物の野球ボールが必要だ。レジを離れたあとで、あっと驚くことが起きた。フランクのポケットにボールが一個入っていた。値札がついたままで。
ぼく、野球がすごく下手なんだ。ぼくはフランクに言った。
そうかもしれないな。フランクは言った。ボールの縫い目を指でなぞり、じっと見た。まるで、全世界を手にしているかのように。
外に出るとき、フランクは店が客に配っているチラシを一枚とった。今週のお買得品というのが出ているチラシ。車まで行くと、それをバックシートに広げた。シートのカバーに血をつけたくないんだ、アデル。フランクは言った。あ、アデルって呼んでいいかな?
よその母親ならたぶん、フランクにあれこれ質問するだろう。いや、最初から彼を受け入れようとしないだろう。その可能性のほうが大きい。ところが、母は黙って車をスタートさせただけだった。ぼくは、誰にも何も言わずに職場を離れたせいで、フランクの立場が悪くなるんじゃないかと心配だった。だけど、もしそうだとしても、フランク自身はまるで気にしていない様子だった。
じっさいのところ、おろおろしているのは、三人のなかでぼくだけのようだった。この状況をなんとかしなきゃという思いはあったが、どうすればいいのかわからなかった。それに、フランクがすごく冷静で、いろんなことをよく知っているようなので、黙ってついていきたくなる。もちろん、実際はフランクのほうがぼくたちについてきているのだが。
人間に関して、おれは第六感が働くんだ。フランクは母に言った。さっきの店はすごく広かったが、店内をざっと見ただけで、あんたがおれの求めてる人だとわかった。
あんたに嘘はつかない。フランクは言った。ちょっと厄介なことになっててね。こんなときにおれと関わりあいになろうって人間は、たくさんはいないだろうな。あんたはじつにものわかりのいい人だって気がするから、その直感に従うことにするよ。
この世の中で生きてくのは楽なことじゃない。フランクは言った。ときにはすべてを中断し、腰をおろして、考える必要がある。考えをまとめるんだ。しばらくじっとして。
そこでぼくは母を見た。車はメイン・ストリートを走っていて、郵便局とドラッグストア、銀行、図書館を通りすぎていく。どれも昔から見慣れた建物だ。ただ、何度もこの道を通っているが、フランクみたいな人が一緒だったことは一度もなかった。フランクは母に、ローターのブレーキパッドがすり減ってるんじゃないか、変な音がするから、と指摘した。工具さえ手に入れば、おれが調べてみてもいいぜ。
ぼくは助手席で母の顔をじっと見て、フランクがそう言ったときに母の表情が変わらなかったか、たしかめようとした。自分の心臓がどきどきするのを感じた。それから、胸が締めつけられるのを。恐怖ではなく、何かそれに近いもので。だが、妙な楽しさもあった。父がリチャードと赤ん坊とぼくを、そして、マージョリーをディズニーワールドへ連れていってくれて、マージョリーと赤ん坊以外のみんなでスペースマウンテンのシートに乗りこんだときも、こんな感じだった。スタートする前に逃げだしたくなったが、やがてライトが消えて、音楽が始まり、リチャードがぼくを小突いて言った。ゲロすんなら、反対向いてやってくれよな。
今日のおれはついてるぞ。フランクが言った。たぶん、あんたたちも。
ぼくはその瞬間、変化が訪れようとしていることを知った。いま、みんなでスペースマウンテンに乗りこむところだ。真っ暗な場所へ入っていき、地面が消え去り、このままどこへ連れていかれるのか、もうわからなくなる。戻ってこられるかもしれない。こられないかもしれない。
母も同じように感じていたとしても、顔には何も出さなかった。ハンドルを握ったまま、きたときと同じように、家に帰り着くまで前方を見据えていた。
父が出ていったあと、わが家は母とぼくの二人だけになった。父はぼくに、新しい奥さんのマージョリーとのあいだにできた赤ん坊のことを家族だと思ってほしいと言った。そして、マージョリーの息子リチャードのことも。リチャードは誕生日がぼくより半年遅いのに、運動音痴のぼくと違って、どんなスポーツも器用にこなす。でも、うちの家族は母のアデルとぼくだけ。それでおしまい。赤ん坊のクロエを家族に含めるぐらいなら、ハムスターのジョーを家族にするほうがまだましだ。
毎週土曜の夜になると、父がぼくを迎えにきて、一家そろって〈フレンドリー〉へ食事に出かける習慣だったが、父はいつも、車のバックシートにぼくと赤ん坊を並んですわらせたがった。レストランでは、ポケットから野球カードの束をとりだし、ボックス席のテーブルに広げて、リチャードとぼくで分けるように言う。ぼくは自分の分をいつもリチャードに譲っていた。当然だろ? 野球が大の苦手なんだから。体育の先生が、さてと、ヘンリー、きみはブルーチームだ、と言うと、ブルーチームの全員がうめき声を上げたものだった。
ふだんの母は、父のことも、現在父の奥さんになっている女のことも、その息子のことも、赤ん坊のことも、ぜったい口にしなかった。ただ、一度だけこんなことがあった―ぼくはそのとき、父にもらった写真をテーブルにうっかり置きっぱなしにしていた。前の年にディズニーワールドへ連れてってもらったときの、ぼくたち五人の写真だった。母は少なくとも一分ほど、それをじっと見ていた。キッチンに立って、白い華奢な手で写真を持ち、長い優美な首を軽くかしげて、まるで、いま見ている写真に何か重大なむずかしい謎が隠されているような顔をしていた。ぼくたち五人がアトラクションのティーカップにぎゅう詰めですわっている写真にすぎなかったのに。
あなたのお父さん、赤ちゃんの左右の目が不ぞろいなのが気になるでしょうね。母は言った。成長が遅れてるだけで、知的障害ではないと思うけど、検査してもらったほうがいいんじゃない? 頭の弱そうな子に見えなかった、ヘンリー?
ちょっとそうかも。
やっぱりね。母は言った。この赤ちゃん、あなたに似たとこなんてひとつもないわ。
ぼくは自分の役割をちゃんと心得ていた。ぼくの本当の家族は誰なのかを理解していた。母だ。
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その日、母とぼくは外出したが、それはめったにないことだった。ふだん、母はどこへも出かけない。でも、ぼくの通学用のズボンが必要だった。
わかった。母は言った。じゃ、〈プライスマート〉ね。まるで、その夏にぼくの身長が一・五センチ伸びたのは、ぼくが母に苦労をかけるためにわざとやったことだと言わんばかりに。まあ、母はそれまでもずいぶん苦労してきた人だけど。
イグニッションに差しこんだキーを母がまわすと、一発でエンジンがかかった。この前ぼくたちが車で出かけたときから一カ月もたっていたことを考えると、これは驚きだった。母はいつものようにのろのろ運転で、まるで道路が濃い霧か氷に覆われているかのようだったが、じつをいうと、いまは夏(新学期が始まる前の最後の日々で、今日はレイバーデイの週末を前にした木曜日)。空には太陽が輝いていた。
長い夏だった。学校から解放されたばかりのころは、長い休みのあいだに日帰りでもいいから海へ行きたいと思っていたが、母に言われた―高速が渋滞するわよ。それに、あなたはあの人(ぼくの父のこと)の肌の色を受け継いでるから、ひどい日焼けになるだろうし。
夏休みに入ってから六月末まで、そして、七月のあいだじゅう、そして、八月が終わろうとしているいまに至るまで、ぼくは何か変わったことが起きるよう願いつづけてきたが、何ひとつ起きなかった。父が〈フレンドリー〉へ連れてってくれて、ときたまリチャードやマージョリーや赤ん坊と一緒にボウリングに出かけるぐらいだった。そうそう、父がみんなをホワイト山脈へ旅行に連れてってくれて、籠を作る工房を見学したり、マージョリーの希望でクランベリーやレモンやジンジャーブレッドの香りの手作りロウソクを売っている店に寄ったりしたこともあった。
それ以外は、夏のあいだじゅう、テレビばかり見ていた。母からトランプのソリティアのやり方を教わり、それに飽きると、長いことほったらかしだった家のなかのいろんな場所の掃除をして、手間賃として五十ドルもらった。ポケットに入れたその金で、パズルの本をもう一冊買いたくてうずうずしていた。いまの時代なら、ぼくみたいな変わり者の子供でもゲームボーイやプレイステーションで遊ぶだろうが、あのころは、ニンテンドーを持ってる家なんてごく一部だった。うちはそのなかに入っていなかった。
当時は女の子のことで頭がいっぱいだったが、それは頭のなかだけのことで、女の子に関してぼくの人生に何かが起こることはなかった。
ぼくは十三になったばかりだった。女とその肉体について、それから、男と女がひとつになったときに何をするのか、四十歳になる前に恋人を作るにはどうすればいいのかといったことについて、なんでもいいから知りたかった。セックスに関してあれこれ疑問があったが、そういう話をするときの相手が母でないことはたしかだった。もっとも、ときには母のほうからそういう話題を出してくる。たとえば、買物に出かける車のなかで。あなたの身体、変化してきてるようね。ハンドルを握りしめたまま、母は言う。
ノーコメント。
母はまっすぐ前を見つめていた。まるでルーク・スカイウォーカーになって、Xウィング・ジェットを操縦しているみたいに。どこかべつの銀河へ向かって出撃―ショッピングモールという銀河へ。
*
店に着くと、母がジュニアものの売場についてきてくれたので、二人でズボンを選んだ。それから下着もあれこれ選んだ。
靴も必要じゃないかしら。よそへ出かけたときのいつもの口調で、母は言った。つまらない映画だけど、チケットを買ったからには最後まで見ていかなきゃ、というようなものだ。
古い靴でまだ大丈夫だよ。ぼくは言った。心のなかでは、今日の外出で靴まで買ってしまったら、今度ここにこられるのはずっと先になるけど、買わずに帰ればもう一度出かけてこられる、と思っていた。学校が始まれば、ノートに鉛筆、分度器、電卓も必要になる。あとになって、ぼくが靴のことを持ちだし、母から、この前買物に行ったときになぜそう言わなかったのかとなじられたら、ほかにもいろいろと必要なものがあると言えばいい。母も折れるはずだ。
衣類の買物は終わった。ぼくは選んだ品をカートに入れてから、雑誌とペーパーバックが置いてあるコーナーへ行き、コミック誌『マッド』のページをめくりはじめた。ただし、ほんとに見たいのは『プレイボーイ』。そういう雑誌はビニールで密封されている。
商品の列の向こうに、カートを押して通路を進んでいく母の姿が見えた。流れの遅い小川に浮かんだ木の葉のようにゆっくり漂っていく。母がカートに何を入れるのか予測がつかない。まあ、あとでわかるだろう。ベッドの背にもたれて夜の読書をするためのクッション。電池式のミニ扇風機。ただし、電池は買わない。セラミックの動物―ハリネズミとか、そういう種類のやつ―両脇に筋がたくさん入ってて、そこに種をまいて水分を切らさないようにしておくと、そのうち芽が出てきて、動物が緑に覆われる。ペットみたいなものね。母は言った。でも、ケージの掃除に頭を悩ませなくてもいいのよ。
ハムスターの餌は? ぼくは母に催促した。それも買わなきゃ。
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『コスモポリタン』の“女が男に知ってもらいたい女のヒ・ミ・ツ”という記事に目を奪われて夢中で読んでいたとき、一人の男がぼくのほうに身をかがめて話しかけてきた。男はパズル本のすぐ横の棚のところに立っていた。編物とガーデニングの雑誌が並んでいる棚だった。こういうものを読みたがるタイプには見えない。ぼくに声をかけるのが目的だったのだ。
ちょっと手を貸してもらえないかな。男は言った。
ここで初めて、ぼくは男に目を向けた。背の高い人だった。首と、シャツから出ている腕に筋肉がついているのが見えた。皮膚が消えたあとの頭蓋骨がどんな形なのか、はっきりわかる顔をしていた。もっとも、この人はまだ生きてるけど。〈プライスマート〉の従業員用のシャツ―色は赤、ポケットにはジェリーという名前―を着ていて、よく見ると、脚から血が出ていた。血はズボンをぐっしょり濡らし、靴にまでしみこんでいる。それは靴というよりスリッパに近かった。
血が出てるよ。ぼくは言った。
窓から落ちたんだ。このときの彼の口調は、まるで蚊に刺された話をしているみたいだった。だから、そう言われても、あまり変に思わなかったのかもしれない。あるいは、何もかもすごく変だったから、この言葉がそれほど気にならなかったのかもしれない。
助けを呼んでこなきゃ。ぼくは男に言った。母さんは頼りになりそうもないけど、ほかにも買物客がたくさんいるから、と思いながら。おおぜいのなかからぼくが選ばれたんだと思うと、うれしかった。めったにないことだ。
みんなをギョッとさせたくないんだ。男は言った。血を見ると怯える人間がたくさんいるからね。何かのウィルスに感染すると思いこむ。わかるだろ。
男が言おうとしていることを、ぼくは理解した。この春に学校で開かれた集会のおかげだ。当時は、人の血液に触れてはならない、命を落とす危険がある、ということしか知られていない時代だった。
きみ、あっちにいる女の人と一緒にきたんだろ? 男は言った。母のいるほうへ目を向けていた。母はいま、ガーデニング用品の売り場に立ち、ホースを見ていた。うちにはホースはないが、いまは庭仕事をしないので必要もない。
きれいな人だな。男は言った。
うちの母さんだよ。
きみに頼みたかったのはね、お母さんの車に乗せてもらえないかってことなんだ。シートに血がつかないように気をつける。どこかへ連れてってもらえないかな。お母さん、おれの力になってくれそうな気がするんだ。
これが図星だったのが、母にとっていいことだったのかどうか……。
どこへ行きたいの? ぼくは男に訊いた。心のなかで思っていた―従業員が怪我をしたとき、買物客に助けを求めなきゃいけないなんて、この店は従業員のことをあまり大事にしてないってことだよね。
きみの家へ行ってもいいかな?
最初は問いかけるような口調だったが、男はつぎに、コミックの『シルバーサーファー』に出てくるスーパーパワーを持ったキャラみたいにぼくを見た。ぼくの肩に手をかけた。がっしりと。
はっきり言おう、坊や、ぜひ連れてってくれ。
そこで、ぼくは男をしげしげと見た。そう言ったときの顎の感じから、どこか痛いところがあるらしいとわかった。顔に出さないようにしているだけだ。顎がきつくこわばっていて、まるで釘を噛んでいるみたいに見えた。ズボンについた血はあまり目立たなかった。ズボンがネイビーブルーだから。店にはエアコンが入ってるのに、男はひどく汗をかいていた。頭の横にも血が細い筋となって垂れ、髪のなかで固まっているのが見えた。
店では野球帽の在庫一掃セールをやっていた。男が野球帽をひとつとってかぶると、血はあまり目立たなくなった。脚をひどくひきずっていたが、似たような人はけっこういた。男は棚からフリースのベストをとり、〈プライスマート〉の赤いシャツの上に着た。値札をはずすのを見て、代金を払う気はないんだとぼくは思った。従業員用の特典か何かあるのかも。
ちょっと待って。男は言った。もうひとつほしいものがある。ここで待っててくれ。
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母が世の中のことにどんな反応を示すのか、誰にも予測がつかない。たとえば、宗教のパンフレットを持って家々を一軒ずつまわっている男がいるとしよう。母は大声でわめいてそいつを追い払う。ところが、べつのときには、ぼくが学校から帰ると、そいつがうちのカウチにすわって母とコーヒーを飲んでいたりする。
こちら、ジェンキンズさんよ。母が言った。ウガンダの孤児院のために資金集めをしてらして、その孤児院の話を聞いてほしいんですって。そこの子たちは一日に一回しか食事ができなくて、鉛筆を買うお金もないの。月に十二ドル寄付すれば、わたしたち、アラクっていうこの小さな男の子を助けてあげられるのよ。あなたの文通相手になってくれるかもしれないわ。まるで弟みたいに。
父に言わせると、ぼくにはすでに弟がいるそうだが、マージョリーの息子を弟などと呼べないことは、母にもぼくにもわかっていた。
すごいね。ぼくは言った。母は小切手を書いた。男が写真をよこした。ぼやけた写真。単なるコピーだもの。母はそれを冷蔵庫に貼った。
それから、寝間着の女の人がうちの庭に迷いこんできたこともあった。ずいぶん年をとってて、自分の家もわからなくなっていた。息子を捜していると言いつづけた。
母はそのときもおばあさんを家に入れて、コーヒーを出してあげた。ややこしすぎて混乱してしまうことって、よくありますよね。母はおばあさんに言った。わたしたちがなんとかしましょう。
こういうときは、母が主導権を握る。とてもノーマルに見えて、ぼくもホッとする。コーヒーを飲み、トーストを食べたあと、おばあさんをうちの車の助手席に乗せ、シートベルトを締めて(もしかしたら、母が車を運転したのはこのとき以来かもしれない)、長いあいだ、ゆっくりと近所をまわった。
見覚えのあるものが何かあったら教えてくださいね、ベティ。母がおばあさんに言った。
このときだけは母ののろのろ運転が役に立った。一人の男性がぼくたちに気づき、助手席のベティに気づいて、手をふって招き寄せた。
必死に捜しまわってたんです。母が車の窓をあけると、その男性は言った。親切にしてくださって、ほんとに感謝します。
ご無事ですよ。母は言った。きてもらえてとてもうれしかったわ。またこの方をお連れくださいな。
その女の子、気に入ったわ。助手席側にまわってシートベルトをはずす息子に、ベティは言った。こういう子と結婚すればよかったのに、エディ。あんなあばずれじゃなくて。
そこで、ぼくは男性の表情をたしかめたくて、顔をじっと見た。けっしてハンサムではないが、性格のよさそうな人に見えた。一瞬、母がもう誰とも結婚していないことをこの人に伝える手段があればいいのに、と思った。わが家はぼくたち二人だけ。この人がときどき、ベティを連れて遊びにきてくれればいいのに。
エディって、いい人みたいだね。走りだした車のなかで、ぼくは言った。あの人も離婚してるかもしれない。もしかしたら。
*
母は日用品売場にいた。近づいていったぼくたちに言った。ついでだから、電球を買っていこうと思って。
よかった、よかった。うちで電球が切れると、そのままほったらかしだ。おかげで、わが家は暗くなるいっぽうだった。キッチンに無事に残っている電球はたったひとつで、それもあまり明るくない。夜中に何か探そうとするときは、わずかな光を得るために冷蔵庫の扉をあけなくてはならない。
この電球をどうやってソケットにはめればいいのかしら。母は言った。わたしじゃ、天井の照明器具に手が届かないし。
そこで、ぼくは血を流している男性を紹介した。ジェリーだよ。背の高い人だという事実がプラスの要素になると思った。
母さんのアデルだよ。ぼくは言った。
おれはフランク。男は言った。
こっちが思っていたのと違う名前が出てくることって、けっこうあるものだ。この人、きっとうっかりして、他人のシャツを着てしまったんだろう。
いい息子さんだね、アデル。フランクが母に言った。親切な子で、車に乗るように言ってくれた。そのお礼に、おれでよければ手伝えるかもしれない。
フランクが言っているのは電球のことだった。
それから、家のなかの用事がほかにも何かあったら、遠慮なく言ってくれ。おれにできないことはほとんどないから。
そこで、母がフランクの顔をじっと見た。野球帽をかぶっていても、頰にこびりついた血が見える。しかし、母は気づいていない様子だった。いや、気づいたとしても、たいしたことではないと思ったのかもしれない。
ぼくたちは一緒にレジを通った。ぼくのパズル本の代金を払わせてほしいと、フランクが母に言った。ただし、いまは手持ちの金がほとんどないので、ぼくに借用証を書かなくてはならないという。野球帽とフリースのベストのことは、レジ係に内緒にしておくつもりらしい。
ぼくの新しい衣類と、散水用のホースと、クッションと、セラミックのハリネズミと、電球と、ミニ扇風機のほかに、母は合板製のバッティングセットも買っていた。ゴムベルトの端にボールがついていて、続けて何回でも打つ練習ができる。
あなたへのプレゼントよ。レジのコンベアベルトにバッティングセットをのせながら、母が言った。
六つのとき以来、こんなもので遊んだ覚えは一度もないということを、わざわざ説明するつもりはなかった。ところが、横からフランクが口をはさんだ。こういう男の子には本物の野球ボールが必要だ。レジを離れたあとで、あっと驚くことが起きた。フランクのポケットにボールが一個入っていた。値札がついたままで。
ぼく、野球がすごく下手なんだ。ぼくはフランクに言った。
そうかもしれないな。フランクは言った。ボールの縫い目を指でなぞり、じっと見た。まるで、全世界を手にしているかのように。
外に出るとき、フランクは店が客に配っているチラシを一枚とった。今週のお買得品というのが出ているチラシ。車まで行くと、それをバックシートに広げた。シートのカバーに血をつけたくないんだ、アデル。フランクは言った。あ、アデルって呼んでいいかな?
よその母親ならたぶん、フランクにあれこれ質問するだろう。いや、最初から彼を受け入れようとしないだろう。その可能性のほうが大きい。ところが、母は黙って車をスタートさせただけだった。ぼくは、誰にも何も言わずに職場を離れたせいで、フランクの立場が悪くなるんじゃないかと心配だった。だけど、もしそうだとしても、フランク自身はまるで気にしていない様子だった。
じっさいのところ、おろおろしているのは、三人のなかでぼくだけのようだった。この状況をなんとかしなきゃという思いはあったが、どうすればいいのかわからなかった。それに、フランクがすごく冷静で、いろんなことをよく知っているようなので、黙ってついていきたくなる。もちろん、実際はフランクのほうがぼくたちについてきているのだが。
人間に関して、おれは第六感が働くんだ。フランクは母に言った。さっきの店はすごく広かったが、店内をざっと見ただけで、あんたがおれの求めてる人だとわかった。
あんたに嘘はつかない。フランクは言った。ちょっと厄介なことになっててね。こんなときにおれと関わりあいになろうって人間は、たくさんはいないだろうな。あんたはじつにものわかりのいい人だって気がするから、その直感に従うことにするよ。
この世の中で生きてくのは楽なことじゃない。フランクは言った。ときにはすべてを中断し、腰をおろして、考える必要がある。考えをまとめるんだ。しばらくじっとして。
そこでぼくは母を見た。車はメイン・ストリートを走っていて、郵便局とドラッグストア、銀行、図書館を通りすぎていく。どれも昔から見慣れた建物だ。ただ、何度もこの道を通っているが、フランクみたいな人が一緒だったことは一度もなかった。フランクは母に、ローターのブレーキパッドがすり減ってるんじゃないか、変な音がするから、と指摘した。工具さえ手に入れば、おれが調べてみてもいいぜ。
ぼくは助手席で母の顔をじっと見て、フランクがそう言ったときに母の表情が変わらなかったか、たしかめようとした。自分の心臓がどきどきするのを感じた。それから、胸が締めつけられるのを。恐怖ではなく、何かそれに近いもので。だが、妙な楽しさもあった。父がリチャードと赤ん坊とぼくを、そして、マージョリーをディズニーワールドへ連れていってくれて、マージョリーと赤ん坊以外のみんなでスペースマウンテンのシートに乗りこんだときも、こんな感じだった。スタートする前に逃げだしたくなったが、やがてライトが消えて、音楽が始まり、リチャードがぼくを小突いて言った。ゲロすんなら、反対向いてやってくれよな。
今日のおれはついてるぞ。フランクが言った。たぶん、あんたたちも。
ぼくはその瞬間、変化が訪れようとしていることを知った。いま、みんなでスペースマウンテンに乗りこむところだ。真っ暗な場所へ入っていき、地面が消え去り、このままどこへ連れていかれるのか、もうわからなくなる。戻ってこられるかもしれない。こられないかもしれない。
母も同じように感じていたとしても、顔には何も出さなかった。ハンドルを握ったまま、きたときと同じように、家に帰り着くまで前方を見据えていた。
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2014/3/6更新
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