第1弾【2】
システムによって生み出される”物語”や、その実現性に対して懐疑的な長尾館長と、
“物語”を自動生成する仕組み自体は創作可能ではないかと説く円城氏。
一見立場が逆のようにも思えるふたりの議論は、いよいよ”表現”の本質論へ。
短歌生成プログラムが成功したわけ
円城 確かに、現状では創作行為をすべて機械化することは難しいんですよね。でも……ちょっと話が変わるのですが、長尾さんは「短歌」の自動生成プログラム「星野しずる」というものをご存じですか? いま、というかこのプログラム自体は2008年から存在して一部で話題になっていたのですが、佐々木あららさんという自身も歌人である方が作られたプログラムで、「星野しずる」というものがあるんです。ここではあえて”彼女”といいますが、彼女はかなりいい歌を詠むんですよ。たとえばこんなふうに。
おはようの世界の先に走り去る静かな舟を見ていたら声
朝焼けを見ている濡れたライオンはサッカー部員の誰かに似てる
短歌だと上の句と下の句という定型があるわけですし、ある程度のテンプレートを用意しておけばこういうことも十分可能なわけですよね。もちろん”どういう単語を用意しておくか”ということは重要なファクターなので、製作者である佐々木さんのセレクトに拠っているところは大きいのですけれども。超能力的な(笑)。
長尾 そういうふうに単語がランダムに組み合わされて作品が作られた場合、受け取り手としては……たとえば人間が詠んだ歌であれば、この単語とこの単語を並べた意図はと考えて、そこに意味を読み取りますよね。そういう”解釈”は受け手の想像力でまかなうわけですか。
円城 そこなんです。もちろんただなんとなく受け取るだけならいいんですけれど、歌人の方なんかは星野しずるが詠んだ歌を見ていると、”酔って”しまうという話があったりしておもしろいんです。歌の背後にいる人格が掴めなくて気持ちが悪くなってくるとか。文芸批評の前提から言うと、作者の人物像とか背景に関係なく、作品は「書かれたもの」を評価すべきということになっていますが、僕なんかの場合でも、複数の作品を並べて「円城塔」という作家の人物像を想像されているという実感があります。本当のところ僕は、一作ごとにバラバラなものを出して、作者像など捉えられないようにすることを目指しています。意味など取られないように……。
長尾 あなた、まるで現代社会のようですね(笑)。混乱した世界を体現しているような。
円城 ははは(笑)、でもそうじゃないと作家と呼ばれながら書いてはいられないよ、というところもあるんですよ。いや、ひたすら自分の情感を書き連ねるという方がいてもいいけれども、そういうのはブログに書いてくれ、とも思うんです。
長尾 しかし、脈絡のない単語を組み合わせて「これを解釈しろ」と言われても、私みたいな平凡人には頭のなかがくしゃくしゃっとなってしまってどうも……。
円城 そうですね、この場合、短歌だからこそ可能だったという面は大きいですね。情感を歌いあげるとかではなくて、思いもよらない単語が並ぶことが与えるショックに直面させられる。そもそも星野しずる自体は、そういう種類の詠み方に対する、アンチとまではいえないテーゼとして登場しているわけです。やっぱり他の分野の、たとえば論文の自動生成なんかだと問題がありますよね。ちょっと前に、論文を自動生成して学術誌なんかに送りつけるといういたずらがありましたが。
長尾 ちょっと知識があれば、この人のこのあたりと別の人のこのあたり、なんていう取り出し方をしてバババっとつないで新しい論文を作るなんて朝飯前ですからね。
円城 同じような感覚で、大学生たちもwikipediaからの切り貼りでレポート作成していたりとか、読書感想文なんかだと、「この文章をちょっと変えて使ってね」というような”素材”がネット上に落ちていたりもする。
長尾 しかし、そうなってくるとそれはもう、解釈云々というより著作権の問題に発展しますよね。「著作物」というものをどう考えるのか。現状、著作権上では同一表現を禁止しているわけですけれども、じゃあ「て・に・を・は」を変えただけの文章はどうなるんだ、とか、たとえば「私は東京へ、昨日行きました」という文章を入れ替えて「私は昨日、東京へ行きました」としたような場合、創意工夫がなされていないのに「同一ではないからOK」ということになるのか。もっと私たちは真剣に議論をしていく必要があるように思いますね。
円城 そうですね。それに似たようないたずらは世界中でいっぱいあって、僕の場合はいたずらというより、積極的にそれに挑んでいるところがあるんですけれども。でもそうすると、どうしても「書く意味」ということは失われていくので、内面的におかしくはなっていきますね。
それでも僕がどちらに独自性を感じるかというと、個々の文章であるよりは、それを生成する仕組みのほうなんですよね。これは別に高尚な話ではなくて、読書感想文をひとつ書くよりも、読書感想文のテンプレートを作成できるほうが、なんといいますか、素朴に偉いのではないか、と考えたりする。少なくとも、いたずらとしてのデキはいいわけです。
評価は人にしかできない
長尾 しかしまあ、いまおっしゃったようなことを考えていきますと、人間固有の能力というのは一体どういうものであるのか……たとえば短歌というのは5・7・5・7・7と、31文字が基本でしょう。これだけ文字数が限定的であれば、辞書のあらゆる単語を入力して何億、何兆というパターンの組み合わせを機械的にシミュレーションすることができますよね。作ろうと思えば膨大な数の短歌が生成できる。そしてそのなかには、人が詠んだものと重なるものも当然あるでしょう。そうなってくると、究極的に言って、人間の持っている能力というのは、「作る」ということよりも、何億首の歌のなかから、これは良い、これは良くない、ということを判定し、評価する能力ということになるのではないでしょうか。
あるいは、短歌や、将棋や囲碁、そういう「巨大なる有限」の世界のものではなく、パターンなど出し切ることが不可能な、無限の可能性があるもののなかで、意図を持って何かを作り出していくこと、それはやはり人間にしかできないのではないかと思います。
円城 確かにそうやって「判定」できることを含めて人間の能力というのはすごいと思うんです。「いろは歌」だって、「すべての文字を一度だけ使う」というルールだけを考えれば、膨大な組み合わせ方が考えられる。いろいろコンピュータシミュレーションとかもされましたが、現在の「いろは歌」を凌ぐものはないといわれている。というかそれ以前に、書き手ができることは「良いものを書く」ということそれに尽きると思うんです。それは間違いないんじゃないかと。だから、書くということは、それだけで閉じたものではなくて、読み手との間に生じる運動に注目すること、あるいはその運動自体を書くということになる。その意味では、何かのテンプレートというのは、読書の「作用」の記述でもあり、分類になるわけです。種類は色々あっても、この薬は風邪薬、みたいな。そうした「作用」をとりあえず列挙できればいいなと思うわけです。それには、機械化というのは大変わかりやすい指標になる。なので、大変結構なことであるという実感を僕は持っているのですが、運用レベルでは当然問題も起こります。例えば、「判定」なり「評価」なりという、書き手にとっては非常に重要な場面において、誰かの目に触れるところまでいき、拾われる確率というのはすごく減退しているという印象を僕は持っています。単純に言うと、「多すぎて読めない」という事態になるんじゃないかと思うんです。
だから別の考え方をすれば、特定の人にだけアピールすることを考えたほうがいいのかもしれない。いやあるいは、”ベストセラー生成機”なら作れるかもしれない。
長尾 人物の性格や動きを研究しパターン化して、戦略的に書いていけば、村上春樹さんのようにたくさんの読者に訴求するものが作れるようになったりするかもしれない、ということですね。
円城 そうですね。いやむしろ『1Q84』ではなく、ジョージ・オーウェルの『1984年』のなかにそんなくだりがありましたよね。『1984年』で描かれる世界には、”ニュースピーク”という、思考を単純化し、思想を管理するための言語、もっといえば「他のことが考えられなくなる言語」が登場して……僕はそういう状況もありだと思っています。設計側に回れるなら(笑)。
長尾 でもそれをコンピュータがやっているとわかったら、読者は誰も見向きしないでしょう。
―――いや、僕だったら興味を持つ、というか、さらに売れるということもあり得るのではないですか。
機械の、機械による、機械のためのテキスト
円城 なんだか立場があべこべですね。バリバリの研究者である長尾さんが、コンピュータより人間だと言い、一応作家という名前でここにいる僕のほうが機械、機械と言っているというのは(笑)。長尾さんはずっと機械翻訳や、パターン認識というものに関わってこられるなかで、”書き手”に、「おまえらもっと機械処理しやすい文法を使って書け!」と思ったことはないですか?
長尾 ありますよ、もちろん(笑)。少なくとも、コンピュータのマニュアルとか、電化製品の取り扱い説明書についてはそうすればいいのにとずっと思ってきました。だって電機メーカーなんて、世界中で商売するために、説明書の翻訳にすごい人手とお金をかけているんですよ。最初からある制約された文法にのっとって日本語の説明書を書いておけば、コンピュータによって瞬時に翻訳することが可能になるんです。そういう「産業日本語」というのを設定しようじゃないかというのは昔から言っていました。
円城 ローマ字日記ふうにするとか、何か方法がありそうですよね。機械が識別しやすい方法が。
長尾 でもやはり、そういうことをすると文学的な雰囲気がなくなって、味気なくなるんですよね。
円城 やっぱり完全に立場が逆転しています(笑)。
長尾 ただ、コンピュータは、確かに人間に肉迫している。だけど、こと言葉に限っては、どうしても肉迫できない部分があるんですよ。例えばチェスなんかだとすでにコンピュータが世界チャンピオンを破ったりしています。それはチェスには明確なルールがあるからであって、言葉にはそういう厳密さや明確な定義というのがない。機械は明確なルールにのっとってしかできないから、人間のように、豊かで自由な表現というものは生み出せない。
円城 ただ、僕は思うんです。たとえばいま、世界で一番テキストを読んでいるのはどうもGoogleだということになりそうじゃないですか。そして、そのGoogleの検索プログラムにとって読みやすい文章というものが確実にある。だから自分のページを検索上位につけたいと思っているサイト製作者は、その検索プログラムに認識してもらいやすいようにページを作る。そのサイクルからは完全に人間が切り離されているように思えるんですが、でもまあそれもいいんじゃないの、という気もするんですよ。人間不在のまま勝手に情報だけがくるくる回っていたっていいんじゃないか、と。
長尾 でも、それでは「読んだ」ということにはならない。人間が小説なり何か読んだとしたら、そこから何か自分なりの感想やフィードバックが生まれる。コンピュータからはそれが出てこないんですよ。
(次回につづく)