第1弾【3】

検索プログラムが認識しやすいようにと文章を紡ぐ人間。
実際に、誰よりもテキストを”読んで”いるGoogle検索プログラム。
もはや誰が何のために書き、読んでいるのかわからなくなってきた現状を冷静に見つめながら、
それでも書くこと、読むことの意義について考える。

◎すべてを残しても、「記録」に埋もれてしまうだけ

長尾 そもそも私は、「読む」とか「読んでわかる」ということ、もっといえば、「わかる」というのはどういうことなのかということにずっと関心があります。頭の中で考えて「わかった」と思うのは非常に危険で、本当に「わかって」いるのかというのは怪しいと思うんです。頭の中でもやもやしていることを書き出してみることによって、客観的な世界に「投影」する。それをもう一度頭の中に戻して、というループ的なプロセスは絶対に必要だと思いますね。アウトプットすると、自分の「わかり方」が客観的に自覚できるんですよ。もっというと、やっぱり人間は、外に対する働きかけをせずにはいられない、生理学的な構造を持っているんじゃないかしら、と思うんですよ。そういう衝動をより強く持っているのが作家というものなのかなと私は思うんですが、どうでしょう?

円城 そのはずです。僕は違うんですけど(笑)。いや、でも本当にそうだと思いますよ。でもそうすると、誰もがアウトプットに向かうというか、「とにかくみんな書け」という話になってしまいますよね。すると、「読む」のは誰が担えばいいのかな、と。

長尾 でも実際、インターネットの世界ではすでにみんなが書いていますよね。

円城 そして、図書館はそれを全部集める……?

長尾 そこがしんどいところなんですよね。書籍というのは基本的には編集者の手が入ったものであり、ある水準を保っているのだけれど、ネット上で好き勝手に書かれた膨大な量のテキストを、何から何まで集めることはいったい何を意味するのか。

円城 まるで実物大の地図を作るかのような作業ですよね。

長尾 しかもそれは、刻々と増えていって……。そんなことをしていたら、世界中が記録に埋もれてしまって、人間の生きる余地がなくなってしまうんじゃないのか。そんなふうにも思うんです。

円城 本を出版する意味だってわからなくなってきています。ただ一方で、残しておくべき記録というものも確かにあるのかな、と。たとえば90年代から2000年代初頭にかけて、ブログなどで行われていた発信や議論というのは非常に興味深いものがあります。いまのように誰もに身近なものではなかった時代にそこにアクセスできた人たちが交わした議論というのは、素朴におもしろかったりするものですから。しかしそれはもう既に、アクセスできないものになってしまっている。紙だったら残ったはずなんですけどね。

長尾 まあ、そうですね。ただ現実的にそれが可能かどうか。Googleなんかは膨大なメモリを工場なんかに集めて設置しているらしいですが、そのメモリを動かすための電力が足りないという。こうなったら工場の隣に原子力発電所を作るしかない、なんていう話もあったりして。

円城 一時期は、(マシンにとって最大の敵である「熱」を抑えるための)冷房費がもったいないから、工場を南極に置こうなんていう話もありましたよね。「南極が溶けるからやめてくれ」なんて言い出す人もいたりして。宇宙におくとか。でも最近では冷房なんてきかせないらしいですね。実際に統計をとってみたら、ハードディスクの故障と熱はあんまり関係なかった。少なくとも、ばんばん交換し続けていけば問題ない程度のことにすぎない。じゃあそうしようと。もうめちゃくちゃですね(笑)。

長尾 何のために記録しているのやら。

円城 そもそも、現状のインターネット型の記憶システムでいつまで保存できるのかという物理的な問題もあるし、システム自体がレガシー化していく中で何をどうするのかとか。身近なところではIPV6への移行問題なんかもあるわけです。それから、もっと大きな、見通しとしてどうしていくのかという話ですね。具体的には、なんでもデータ化してしまって、あらゆるアクセスを無限に許容するいわゆる「データヘブン」状態を目指すのか、それとも、DVDのリージョンコードのように、アメリカでしか見られない、あるいは中国でしか見られないといった地域ネットに分裂していくのか、というような。それがいまはまだ……

長尾 わからない。

円城 そう、わからないのに、なんでもかんでもデータ化を進めていっている現状というのはある意味狂っていると思うわけです。分類のための基準をつくれないうちに、ひたすらに鏡をつくっていく。ただ、”SF作家”という肩書きも持つ僕としては(笑)、やれるところまでやってしまえ、と、そしてこの船がどこに行き着くのか見たい、という欲望もあるわけです。

◎そもそも「書く」とは何か、「読む」とは何か

―――”設計者”であるおふたりにぜひお聞きしたいことがあります。「物語」というものの役割について。円城さんは今日、自分は物語とは関わらないということをおっしゃいました。その点について僕は非常に共感するというか、普段自分が「空間デザイン」という仕事をするなかで、「設計する場面において、物語はいらない」と、それどころかむしろ邪魔になっているという感覚を持っています。それがいまのアーキテクチャを取り巻く状況に起きている問題なんじゃないかなと思っています。そういう状況で、「設計」をする場合に、物語の在りようはどうなっていくのか。個人的な話としてでもいいので、おふたりがどういうふうにお考えになっているのかお聞かせください。

円城 僕の場合は単純に、物語的なものが書けないという問題があります。ただ、僕は裏へ裏へと回りたくなる性分なので、物語は書けませんと宣言した直後に書く、ということがまま起こるかもしれません(笑)。なのであまり確固としたことは言えないんですけども、やはり「全員に通じる物語」というものを信じることはほぼできないですね。デジタルに限らずディバイド上等、と。それは受け入れるしかないというか、既に受け入れているのだということを自覚すべきだと。だからもう、全員に共有されることは求めず、小さく小さく絞り込んでいくしかないのかな、という気はしています。でもだからといって、特定の「おひとり様用」に何かを書くということになったら、それって普通の家庭生活なんじゃないの、という話になる(笑)。また、そもそも僕の場合は、「言語」を知るための実験として小説を書いているわけなので、「これを訴えたい」ということがなく、なぜ書くのか、という目的を見失っているともいえます。僕の興味は「言語でどれだけおかしなことができるのか」ということに尽きるので。ただ、そこに何らかの意味が勝手に生じてくるというのに期待する、というのは当然あります。「期待する」というより勝手に生ずるのを待つ、という感じですが。

長尾 そうするとあれですか。小説というのは本来、誰かに理解してもらうために書くものだと思うんですが、いま円城さんがおっしゃったのは、「いままでに書かれていないことを探していく」という、つまり、創造の興味原理によって小説をお書きになっているということになりますね。
あまりにそれをやりすぎると、「コミュニケーションの共通基盤」といいますか、社会のなかでは普通「共通の場」というものがないと、人と人との間にコミュニケーションが成り立たないですよね。つまり、書いたものが理解されない、ということが起こる危険性があるのではないかと思いますけど、そのへんはどう考えていらっしゃいますか。

円城 それは既に起こってるんです。現状がおそらくそうなんですよね。ネットワークなりアーカイブなり【は】【】、共通の土台は作る。でもそこにみんなが集まってコミュニケーションできるかというと、おそらくできない。バラバラバラバラと平面の上で、島状にコミュニケーションを形成していくという形が現状だと僕は思います。それがインデクシング、つまり索引付けが足りないせいでそうなってしまうのか、単に量が多いので、みんなが平面の上でバラけてしまって、あー遠くに何かがかすかに見える、気がする、みたいな状況なのか……はよくわからないです。

長尾 それを荒っぽく言うと……人類の末期的症状じゃないですか。

円城 (笑)だと思います。それが今世紀になってから始まった状況なのか、ずっとそう言いながら一万年くらい暮らしてきましたという話なのかはわかりません。ずっとそうだったものが、全員にそのまま見えるように可視化されてきたのだろうなとは思います。

長尾 音楽にしろ、絵画にしろ、彫刻にしろ、小説にしろ、昔はほとんどの人が理解できて共感できて、というものがあった。ギリシャ彫刻なんてまさに誰が見ても美しい、素晴らしいと思ったでしょう。音楽もそうですよね。だけども、現代音楽というのはわかる人もいるんだろうけども、普通の人が聴いてもなかなか理解はできませんよね。ということは、たとえば文学なんかと同様に、人類にも成長期と爛熟期と衰退期、そういうものがあったとして、いまはあらゆることにおいて衰退期にあると、そういう感じでしょうか。

円城 それが今世紀、あるいは前世紀の話なのか、ずっと言われてきたことなのか――ずっとというのは、産業革命以降ということですが――それがわからないというのがひとつと、そのなかでWebを強化していくというのは一体どういうことなんだろうと考えますね。ただ少なくともそれによってコミュニケーションのスムージングが図れるのは確かです。一方で、悪化させていく面もあるでしょう。森だけが繁茂していき、道は全然整備されない。あるいは密林の中で象がどんどん巨大化していき、その部分を撫でさすっている手の大きさはあまりかわらないままでいる。

長尾 こういうめちゃくちゃな世界というのは、今後どういうふうに発展していくんですかね。発展という言葉が相応しいのかどうかもわかりませんが。さしずめ、図書館なんかはなにをやればいいのか……。

―――この対談シリーズはそれを探るためのものですから(笑)。でも、長尾さんはそういう現状を踏まえてどうしていくべきか、国立国会図書館の館長としてビジョンを提示し、積極的にアイディアを出されていますね。しかし、出版業界や書店との関係もあり、具体的な展開に結びつけるのが難しそうだと、僕なんかから見ると思えます。そのあたりについてはいかがでしょうか。

円城 書店、どうでしょう。正直なところ。

長尾 すべての職業、そしてすべての産業について、栄枯盛衰というのは避けられないと思うんですね。

円城 いまなんかかなり不穏な流れになってきたんですけれども(笑)。

長尾 (笑)いやいや。でも、書店だけでなく、図書館だって出版社だって、「いまの形」からは変化していかざるを得ないのかなと思いますね。たとえば円城さんが小説をお書きになって、それをWebサイトで直接読者に売ろうといった場合、現状の「書店」や「取次」、あるいは本をトラックで運搬する人や管理をする人、全部いらなくなってしまいます。
もちろん私も、日本文化を守るためには、著作者とか、出版社とか、書店とかそういうところが健全な運営にならないといけないと思っているわけですが、それでも避けられないことというのはある。その代わり何か別の仕事や需要というものが生まれてくるわけですし、そういうものを生み出していくしかないのではないかと思います。

円城 そうなるのかな、とは確かに思います。ただ、たとえば「書店」というのはかなり強いインデクシングの仕組み、つまり情報作成と登録という役割を担っていますよね。それが失われるとさすがにまずいのでは、とも思うんですね。

―――でもいまの流れは明らかにそうなっていますよね。

◎「本」が見えなくなる可能性

円城 それでも……話が戻りますけれども、みんなが自分の述べたいことをひたすら書いてひたすらアップロードしていき、広大なデータヘブンのなかで、機械インデックスによって良いものを探す、ということになった場合、読むほうも書くほうも成り立たなくなるんじゃないの、という疑念は残ります。
 まあ、最適化した末の生き残りラインがどこになるのかというような話ではあるんですが。本を巡る環境が再編されていくことによって、重厚長大な小説を書く作家なるものが存在する基盤が失われる可能性はある。それは頑張って頂くしかない、及び書き手も頑張るしかない、というのはあって。ただ、「本」が見えなくなる可能性というところが僕は怖いんですね。

長尾 物理的存在としての「本」というものは、やっぱり残っていくんじゃないでしょうか。

―――残りますか?

長尾 私は永久に残っていくと思いますね。

―――しかしたとえば、本の物質性とか、紙の手触りや香り、そういうものは、本があることを当たり前として、思春期ないしはカルチャーに接する時期を過ごした人たちには共有できるものだけども、これから成長していく子どもたちにとって、果たしてその感覚は有効かどうか。僕は違うと思うんですよ。図書館の話だけではなくて、本の話になると、必ずやっぱり「本は良いよね」という話で終わってしまう。だけどそのロジックでは本当に本は消えちゃうと思うんですよ。もしそれしか本が残る理由とか存在価値とかが無いのであれば。
 その点についておふたりはどう思われるでしょうか。

長尾 私は……大きく変わっていくと思いますね。先ほど「永久に残る」と言いましたが、それはやっぱり、思い入れのある人たちの手元に残るというレベルであって、いま「本」といったときに指すものの形はだいぶ変わると思います。何十年かしたら。

円城 それにともなって「専業の書き手」というものもいなくなっていくんじゃないでしょうか。昼は普通にお勤めして、朝と夜に小説を書いていますと。三年くらい書き溜めたのでアップします、と。それをサイトにみんなが読みに来る。そんな形態になっていくのかな、と。それは、研究者にしても小説家にしても、飼い殺し型のやり方がどんどんなくなってきたのと一緒で、研究者って昔は十人くらい飼っておくとひとりくらいなんかするんだよ、みたいなノリがあったじゃないですか。小説家に対しても、出版社は、なんとなく貧乏暮らしをさせておくと何か書くかも、という期待というか付き合いをしてきた面があると思うんですが、その過程がより極端な形で進行していくのだと思います。無償化された書く行為を、確率的に拾い上げていくような形態ですかね。書く者が勝手に存在するなら、飼殺す必要さえない(笑)。
あと、電子と比較した場合の「紙」についてはもう、保存性くらいしか勝機が見えないですね。ただ保存性で考えると、電子記憶は100年くらいで潰れるかもしれないけど、紙はもうちょっと保ちますよね。そうするとやはり、図書館の本分は紙なのでは? という方向に戻っていくんですけどね(笑)。

長尾 これからは、電子的にどんどん出てくる本をメモリに蓄えていくことになりますが、それを1000年持たせていこうと思ったら、数年単位で装置を入れ直して書き換えていかないといけないから、ものすごくコストがかかりますよね。それに対して紙にプリントしておけば、それは棚の上に置いておけばいいわけですから。

円城 場所は取りますけどね。

長尾 場所は取るけどねえ。だけど、1000年ほったからしても……まあ空調はしないといけないかもしれないけどね。

円城 砂漠の洞窟とかに放り込んでおけばいいんです(笑)。

長尾 はは(笑)。いやー、先のことは難しいですね。でも今日は、物書きの方とこういうお話をさせて頂くのは初めてで、大変おもしろかったというか、勉強になりました。小説というものはどういうふうに作り出しておられるのか、興味津々だったんですけどもなんとなく……。いろいろありがとうございました。

円城 (笑)こんな物書きですみません、というぐらい一般的ではないのですが。そうですね、やはり図書館側へ属する長尾さんが、作品の力を信じ、作家側へ属する僕が、システムへ期待するというように、立場が逆転してしまったというのが、心強くもあり、やっぱりそうかと思うところでもあり、ですね(笑)。
(了)
―第3回―

司会:李明喜(り・みょんひ)
1966年生まれ。空間デザイナー・ディレクター。デザインチームmatt主宰。東京大学知の構造化センターpingpongプロジェクトディレクター。主なプロジェクトに「Sign 外苑前、代官山」「BIT THINGS」「d-labo」など。

  • マンガ 募集
  • コミックエッセイの森

  • 『烏有此譚』(円城塔)

     




    『Self-Reference ENGINE』(円城塔)

     




    『電子図書館 新装版』(長尾真)

     




    『書物と映像の未来――グーグル化する世界の知の課題とは』(長尾真・遠藤薫・吉見俊哉 編)

     




    『ブックビジネス2.0 ウェブ時代の新しい本の生態系』(岡本真・仲俣暁生 編・著/金正勲・津田大介・長尾真・野口祐子・橋本大也・渡辺智暁 著)

     




    『カオスの紡ぐ夢の中で』(金子邦彦/解説:円城塔)

     

  • 円城塔(えんじょう・とう)

    1972年、北海道生まれ。作家。東北大学理学部物理学科卒、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。06年『Self-Reference ENGINE』(現在ハヤカワ文庫)で第7回小松左京賞最終候補。07年『オブ・ザ・ベースボール』(文藝春秋)で文學界新人賞を受賞しデビュー。同作品で第137回芥川賞候補となる。2010年、『烏有此譚』(講談社)で第23回三島由紀夫賞候補、第32回野間文芸新人賞受賞。ほか著書に、『Boy’s Surface』『後藤さんのこと』(ともに早川書房)など。