その形態の美しさや異様さはもちろんのこと、生態の不思議さやはかなさ、
さらには関わる人の面白さまで……身近な存在でありながら、案外知られていない虫の魅力。
読めばあなたも虫の虜に! 人気ブロガー・メレ山メレ子が全力でお届けする、なないろ昆虫記。
《第1回》 カイコ
家畜化昆虫との新しい関係とは?
亡くなった祖母は、虫やけものに脅かされた時代に育ったことを差し引いてもいささか過剰に、おおかたの生きものを嫌っていた。ハエタタキを手放さず、目に入るすべての小虫を血祭りに上げ、庭で猫を追い回していた彼女だが、おカイコだけは別格だった。「おカイコさんはな、すべすべして可愛いんよ」と聞かされたわたしは、幼心にも
「あの婆ちゃんにここまで言わせるおカイコは凄い」
と感じていた。カイコの高い商用価値とそこから生まれた人間との生活(※2)は、虫嫌いの女のパラダイムにも変節を強いていたのだ。
とはいえ、それも今は昔。シルクロード、富国強兵策、富岡製糸場、ああ野麦峠……と歴史の教科書を開いてみても、蚕業が身近に感じられるわけではない。クローゼットをひっくり返してみても、衣類のタグに書かれているのはレーヨン、ナイロン、ポリエステル……といった化繊の名前。わが陋屋(ろうおく)にある正真正銘のシルクといえばたまに着る着物くらいだが、着物市場でも扱いやすいポリ着物が幅をきかせている。養蚕について調べていても、試験場の閉鎖や「おじいさんの代限りだと思っている」という農家の方の言葉など、蚕業の縮小を実感することばかりが目についた。
あまりにも長い時をかけて人に利用されてきた結果、カイコは野生への回帰能力を失った唯一の家畜化昆虫へと進化した。青白い彼らの肢の力は弱く、木の枝につかまって風雨に耐えることはできなくなった。日に数回、桑の葉のついた枝を頭からかぶせてもらわないと、自力で餌を探すこともできず飢えて死んでしまう。
カイコと人のつながりが消える中、彼らと新しい関係を築くことはできるのか? 社畜化された人類の代表として、わたしは家畜化された昆虫と暮らしてみることにした。
《第1回》 カイコ
家畜化昆虫との新しい関係とは?
社畜化された人類VS家畜化された昆虫
虫に詳しいいわゆる「虫屋(※1)」でも虫研究者でもない一介のOLであるわたしが、日本、はたまた世界を駆けめぐり、体当たりで見つけた虫の魅力を等身大の言葉でもって暑苦しく語ることで、いま虫を気持ち悪いと感じているみなさんをめくるめく虫の世界にずーりずーりと誘ってゆくのが目的の本連載。初回で取り上げるのはカイコガ、愛称「おカイコ」だ。
絹の原料である生糸は、蛾の一種であるカイコガの幼虫が蛹になるためにつむいだ繭を茹で、ごく細い絹糸を引き出して縒りあわせて作られる。この虫が作り出す絹糸の価値の前では、愛を語る言葉はいまさら不要かもしれない。
カイコの繭玉から糸を引き出す様子。
波乱の幕開け
爵位すらインターネットで買えるこの時代、いわんやおカイコをや。西陣織の織元「塩野屋」さんは、毎年ネットでカイコ飼育キット(※3)を販売している。孵化の日取りは綿密に調整されており、5月~9月のうち、5種類の孵化日を選んで購入が可能だ。
買う前に電話で孵化や繭化の時期を問い合わせてみたところ、とても親身に対応してもらえた。
塩野屋さん「糸を取るならこの時に……」
メレ子「いえ、そのまま成虫まで育てます」
塩「そうですか? どんな目的で飼われるの?」
メ「ハイ、ただ観察してみたいんです」
塩「そうなの? あのね……」
ハッ、京西陣に14代続く織元のプライドを傷つけてしまったのだろうか。たしかにただ愛玩するだけというのは邪道と思われるかも……と、思わず息をつめるわたし。しかし、続いて聞こえてきたのは意外な一言だった。
塩「あのね……かわいいですよ!」
メ「あっ、えっ、ハイ! かわいいですか! やはり!!」
思わぬところで塩野屋さんのおカイコ愛にふれ、おカイコ生活への期待がいっそう高まる。
「ギャーッ!! 産まれてるー!」
しかし電話までして到着時期を調整したにもかかわらず、わたしはこう叫ぶことになった。
予定していたマダガスカル旅行が往路便のフライトキャンセルで半週ずれ、ドタバタの中でそのことを塩野屋さんに連絡し忘れたため、飼育キットを帰国後、二日遅れの再配達で受け取ることになってしまったのだ。懸念は的中、おそるおそる箱を開けたわたしは恐怖にのけぞった。
厚紙の台紙の上で黒い毛蚕(けご)、つまり孵化したての幼虫25頭が、これまたのけぞってユラユラしている。ただし、彼らをのけぞらせているのは恐怖ではなく空腹。桑の葉を求めて頭を振っているのだ。季節は7月中旬、同梱の桑の葉は黒く変色し、腐臭を放っている。こんなの、いたいけなおカイコに出せないよ……。
かぶりを振るおカイコ
こうしてはいられない。夜中ではあったが剪定バサミを持って近所の川べりに走り、かねてより目をつけていた桑の木から、なるべく柔らかそうな葉を切り取る。しかし、そもそもこの木は本当に桑なのか? いまいち自信が持てず、最初はキットの葉に混ぜて与えようと思っていたのだが……。
不安な一夜が明け、1センチ角に刻んで与えた葉に、筋のような食べ跡があるのを見たときには本当にほっとした。これからは大事にするからね!!
おカイコを飼うとき、おカイコもまたこちらを飼っている
粗忽な飼い主を持つという致命的なハンデにもめげず、おカイコたちはすくすく育っていった。脱皮の前には眠(みん)という、頭をもたげた直立不動の状態になり、一日~二日のあいだ何も食べなくなる。二回めの脱皮を終えた三齢からは、まだ黒っぽいもののカイコらしい姿になってきた。
カイコを飼うと、朝は早起きして、養い子に与える桑の葉を切ってきて、フンや食べ残しの掃除をして……と、健全な生活を余儀なくされる。子供のころは飼う虫をみんな餓死させていたものだが、会社員となった今、これしきのルーチン作業にはビクともしない。社畜と家畜の相性は、なかなか悪くないようだ。
いっしょに飼っているアゲハの幼虫などは、どれだけ心を砕いて世話してもわたしを敵と目し、臭角と呼ばれるツノに似た激臭器官をニュンと出して威嚇してくるのだった。エサの柑橘類を何百倍にも凝縮した刺激的なシトラス臭は手を洗っても落ちず、悲しい気持ちになった。
その点、おカイコは桑の葉をかぶせてやるとワーイ! とばかりに取りついてきて、なんとも健気。向こうはこちらを「大きいの」としか認識していないだろうが、野生のアゲハとは違い「大きいの」がまわりをうろつくのが、カイコにとっての自然な環境なのである。カイコを入れた段ボール箱の蓋をきっちり閉めるのを忘れたとしても、脱走の気遣いはない。繭をつむぐころまでは、仲間をまたぐ程度にしか移動しないのだ。
すくすく育つおカイコ
残業していると「ああ……おカイコの葉っぱ、カピカピになっているかも……」と気が気でないし、剪定バサミを通勤バッグに忍ばせているので、お巡りさんを見ると挙動不審になってしまう。
混雑した電車の中で、半袖のおばあさんと二の腕どうしが触れあった時、電撃的におカイコを連想して震えたこともあった。おカイコの脂気がなく、白くひんやりしてちょっとしわが寄った皮膚は老女のそれとそっくりだ。
おカイコが桑を食べる様子を見ていると、10分や20分は一瞬だ。おがみ手のような短い胸脚でしっかり桑の葉を支えているところは、幼児がアンパンやおにぎりを無心に食べているよう。頭がカッカッカッと数度に分けて弧を描くと、柔らかい葉が丸く削れていく。野生の本能を失ったとはいっても、食事風景はやはり生命力にあふれていた。
青い体液が薄い肌を透かしてヒューンヒューンとめぐっていくさまが、高速道路のライトが背後に駆け抜けていくところを思わせ、なにやらアーバンな気分になる。たぶん、わたしのアーバンの基準がどこかでどうしようもなく掛け違っているのだろう。脱皮の様子を、小一時間かけて動画撮影したこともあった。皮を脱ぐたびに、気品のある白さが増していく。
羽化の一歩手前である終齢幼虫になると、一生のうちに食べる量の約8割、約20グラムの桑葉を消費する。
終齢のおカイコ
飲み会などで好きな異性のタイプに話が及ぶと、たまに「ご飯をおいしそうに食べる女性が好きですね」と答える男性がいる。そんな時なぜか「でもデブはお嫌いなんですよね?」と、誰も得しない糾弾を行ってしまうのだが、おカイコの食いっぷりを見ているときの気持ちはまさに「いっぱい食べる君が好き」だった。
しかし、あまりの食欲旺盛ぶりに、最初に見つけた桑の木だけでは葉の調達がだんだん心もとなくなってきた。わたしは剪定バサミを手に、朝な夕な川辺をウロウロした。朝の光の中軽快に走るランナーも、夜道を気持ちよく歩く酔っ払いも、怪しい人影を目にして道の反対側によけて行った。
おカイコがあまりによく食べるので、厳重にセコムされた近所の豪邸の庭に伸び放題の桑の木を眺めては、鳴り響くアラーム、飛び出してくるドーベルマン、「違うんです……うちの蚕(こ)がおなかを空かしていて……違うんです……」という涙声の訴え、手首にジャラリとかけられた手錠の冷たさ…といった妄想が日ごとリアリティを増していった。おカイコの終齢がもし5、6齢ではなく10齢くらいあったら、前科がついていた可能性も否定できない。
その昔、ニーチェとかいう人がこう書いたらしい。
怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ
精神も生活もおカイコ中心になっていく様子は、まさにおカイコを飼っているのか飼われているのかわからない状態だった。
ねらわれたおカイコと昆虫食の歴史
おカイコとの蜜月が続く中にも、彼らを狙う黒い影があった。昆虫料理研究会代表にしてキングオブバグイーターの異名をとる男・内山昭一氏だ。
昆虫料理研究会では、夏の恒例行事として「セミ会」なるイベントを催している。「セミ(を愛でる)会」や「セミ(の鳴き声を聴く)会」ではなく、「セミ(の幼虫が約7年の沈黙を破って地上に現れたところを捕獲して様々な調理法で味わう)会」だ。
その会場でふるまわれたのが、「カイコのフン茶」だった。カイコの糞を煮出したというお茶は、桑の葉の香りがしてなかなか美味。しかしカイコの体内を経由せずとも、桑の葉をそのままお茶にするのでは駄目なのだろうか。疑問を感じつつも、油断したわたしはなにげなく「うちでもおカイコを飼ってるんですよ」と、内山さんに言ってしまったのである。
内山さん「本当ですか!おカイコ、とっても美味しいですよ。糸を取ったあとのサナギ
を食べるといい」
メレ子「えっ……あ、愛玩目的なので成虫にしようと思ってるんですよ。残念だなあ……」
内「ああ、成虫もいけますよ。フライパンで炒ると余計な鱗粉が飛んで香ばしい味わいになってねえ、 これまた絶品だ」
メ「ええッ」
その後も内山さんはメールでのやりとりの際などに「追伸 おカイコさまはお元気ですか」と折々したため、おカイコのご機嫌うかがいをされるのだった。そのたびにわたしは脳内でおカイコたちをかき抱き「うちの蚕(こ)をそんな目で見ないでー!」と叫んだ。
内山さんの、おカイコの卵の調理を薦めるメール文面を下記に引用してみる。賢明な読者は、ぜひお試しを。
—————————————-
おカイコさまは卵も「陸のキャビア」と僕など呼んでいるほど、たとえばトンブリのような弾ける食感が驚きです。ぜひ卵を産んだら集めて召し上がってみてください。オリーブ油に漬けて塩で味付けます。すこしコショウもふるとベストです。カットしたフランスパンに塗るとキャビアの風情です。
—————————————-
内山さんは毒がなければだいたいの虫を口にしてしまうが、実はカイコは、昆虫食においても古い伝統がある。養蚕の副産物として、また貴重なタンパク源として、信州など養蚕が盛んな地域では昔から食べられていた。糸臭さとでも言うべき独特の風味があるため、蛹をネギなどの薬味と共に、醤油で煮しめるのが一般的だったようだ。
近年は宇宙食への転用(※4)も期待されている様子。宇宙船の窓から見える青い地球とおカイコに思いを馳せながら、おカイコクッキーを食べる時代がやってくるのだろうか。
夏の終わりとカイコのともしび
繭の中で糸を吐き続ける
幼虫の肌がうっすら黄味をおび、内側から光るような艶が出て徘徊をはじめるようになると、熟蚕(じゅくさん)という繭づくり直前の状態だ。あわてて繭づくりの部屋として、厚紙で「まぶし」と呼ばれる格子状の構造物を工作してやったが、飼い主の思いは一方通行。段ボール箱の角、同輩の繭の上、わざわざ箱を脱走して飼育箱の横にあったふきんのしわのあいだなど、すっ頓狂な場所に繭を作る者が続出した。懸命に頭を振って足場に糸を渡し、真ん中がくびれた繭を作る。
品種によって、作る繭の色や大きさはさまざま
繭になって二週間ほどで、ついに最初のおカイコが羽化を迎えた。
この世にもたらされた天使、おカイコの成虫♂
クリーム色の体に逆三角の黒く大きな目、翅は退化して飛べずよちよち歩く脚。幼虫は苦手でも、成虫なら愛らしさに胸を衝かれる人も多いのでは! ためしにGoogleで「カイコ 成虫」と検索語入力すると「カイコ 成虫 かわいい」とサジェストされ、おカイコのかわいさが絶対的なものであることが保証された。
カイコは羽化にあたって、自ら築いた堅牢な繭を破るため、口から液体酵素のコクナーゼを出す。これで、糸を固めているタンパク質のセリシンを分解するのだそうだ。あらかじめ一部の繭をカットし、中の蛹を取り出して箱に入れておいたところ、羽化するところを見ることができた。酵素の露を含んで出てくる様子は、見た目にはおしゃぶりをくわえた赤ちゃんのようだ。
酵素の露を含んだおカイコ
口といってもコクナーゼが出てくるのはそ嚢という器官からであり、食物を摂るための器官は成虫にはない。残された短い時間でやることはひとつ。羽化してすぐ、メスはお尻を上げて黄色いフェロモン腺をプリンと出し、オスはブバババと翅を震わせて異性を誘うのには度肝を抜かれた。
「アンタ、まだ大人になったばっかりでしょ?まだちょっとそういうのは早いんじゃ……?」
飼育箱の前でおびえるわたしをよそに、白い妖精のごときおカイコ様は、これから何をすべきか完全に理解している。「何をおぼこいこと言うとるか」とばかりに、オスは翅を震わせながらノッシノッシとメスの横に並んで寄りそい、お尻をピタッとくっつけてしまった。
交尾が始まると、もう自力では離れられないと言われている。数時間後に意を決し「割愛」の儀を執りおこなうことにした。
割愛とは、結合状態のカイコを人の手で分離させること。「詳細は割愛します」などの一般的用法とは語源が違うらしいが、今後会議などで耳にするたび、カイコを思い出すこと間違いなしだ。震える手でおカイコたちの柔らかい腹を持ち、そっと引っ張る。
離れない。
引っ張る。
離れない。
緊張と恐怖で汗ばみ涙目になりながら、わたしはさらに「カイコ 割愛 やり方」などの単語でググる。すると、ただ引っ張るだけではダメで、90度ほどの回転をかけながら力を加えるのがコツらしい。「早く言えよ!」とワールドワイドウェブに向かって毒づきながら、なんとか分離に成功した。
しかし、彼らの遺伝子には大きな毛筆で「コ ウ ビ」と大書されているのだろう。せっかくビビりながら割愛してもまたすぐ結合してしまうし、隔離してもメスはお尻をプリン、オスはブバババ。なんだか修学旅行の旅館の廊下で、不純異性交遊を取り締まるために竹刀を持ってのし歩く体育教師になった気分だ。まさか虫に風紀指導をすることになるとは思わなかった……。
お尻をプリンと出して誘うメス。めちゃくちゃセクシー
あきらめて放置してみると、半日~一日後には自然と離れることもあるようだった。「体力の消耗を防ぐために割愛する」という記述を鵜呑みにしていたが、よく考えたら生産性とは無縁のこの飼育。消耗するのがカイコの本望だろうと、好きに交歓させておくことにした。
黄色い卵をたくさん産んだあと、おカイコたちは翅をぼろぼろにして、一匹また一匹と減っていった。わたしの仕事はもう、死んだ子を取りのぞいてやることだけだ。
9月10日の夜。箱をのぞくと、残りただ一匹になったオスがまだブバババと盛り上がっている。箱に残ったメスのフェロモンで落ち着かないのだろうか。無心に翅を揺らす姿は、ろうそくの炎のようだった。
カイコと人の新たな関係を築くなどと言いつつ、要は愛でて飼ってみただけなのだが、おカイコとの生活は想像以上にわたしの心に根を張っていたらしく、胸がつまった。職業として養蚕を営む人たちも、塩野屋さんのように少なからずおカイコを愛しているのだろう。ただの愛玩とは性質が異なるとしても。
これから、人とおカイコの絆はどんどん薄れていくのだろうか。みんなが製糸のためではなく、観察や愛玩のためにおカイコを飼ったら、どんなことが起こるだろう。野獣から家畜になり、そしてついに人のかけがえのないパートナーになった犬のように、さらに数億年後――人と共に宇宙に飛び立ったおカイコが知能を発達させ、宇宙船の窓辺で「メレ子、今日は地球のオーロラがすごいキュルよ」と教えてくれたりしないだろうか……しないだろうな……キュルって何だ……。
強い陽射しの下で桑の葉を刈った夏が、そろそろ終わるのを感じる。わたしはむしょうに寂しくなって、箱を閉じながら心の中でつぶやいた。
「ひと夏遊んでくれて、ありがとう」
2013/7/11 更新