森田一義ことタモリの本質を追求した『タモリ学』。
本書と連動し補完する、「大タモリ年表」はこちらです。
膨大な量ですので、気になるところからお読みください。


illustration by 小田扉


 


#1 1945年(0歳)~1974年(29歳)


1945年(0歳) 誕生


▼8月22日、終戦の一週間後に福岡県福岡市南区市崎に誕生。「赤ちゃんコンクール」で優勝したという。ちなみに姉・和子は同コンクール2位だった。本名は「森田一義」。もともとは祖父・真(まこと)が好きだった元総理大臣の「田中義一」からとって「義一」と命名する予定だった。しかし姓名判断で上が画数が多くて下が少ないと頭でっかちな人間になってしまうと判定されたためひっくり返して「一義」に。「僕は苗字も名前も逆になってるんです。逆人生」[1]
▼みのもんた、土居まさるといった日本を代表する司会者と同じ誕生日。また菅野美穂や北川景子も同じ日のため「一緒に誕生日会をやろう」とよく言っている。一方でタモリは「反記念日主義者・アンチアニバーサリスト」のため番組などで「誕生日にケーキを持ってくるのも厳禁にしている」[2]
▼一家は1938(昭和13年)頃まで満州に住み、祖父・真は黒田藩の家老を務めた名門の出身では南満州鉄道・熊岳城駅の駅長、父は大連高等商業学校卒業後、南満州鉄道の経理課に勤務していた。祖母・マツの「神のお告げ」により、一家は戦火が及ぶ前にいち早く日本に帰国。
▼福岡で父・春吉は洋服の卸商、母・富美子はスポーツ用品の販売に従事[3]。母はジャズ、父はフラメンコとコーヒーを好む。ちなみにタモリは後に喫茶店のマスターになるが、そこに父の影響があったかどうかは定かではない。
▼3歳上の姉とふたり姉弟。姉は後に楽器店の支店長と結婚し長崎に移住。
▼遠い親戚に女優の伊佐山ひろ子がいる。伊佐山とは78年公開の映画『博多っ子純情』で共演。

1948年(3歳)~ 幼少期


▼父がおみやげを買ってこなかったことにしつこく文句を言っていると、母と祖母に両側から持ち上げられ、宙に浮いた状態で父に尻をビタビタ叩かれるという「異常な」体罰を受ける。「あれから歪な性格に……(笑)」[4]
▼3歳の頃、両親が離婚。祖父母に引き取られる。なお両親は共に祖父母の養子で、従って正確には、タモリにとって祖父母は義理の祖父母にあたる。母によると父に対して「愛情はなかった」が祖父母に対する恩義で結婚していた。
▼別居した父親はたまに家に来たが、そうした時にタモリが父に会えたうれしさで、いろんなことを話していると「おまえはよくしゃべるね、うるさいよ」と言われてしまう。「それからおやじが嫌いになった。この男、オレと違うなっていう……」[4]
▼家は高級住宅地の南区高宮の石垣に囲まれた大邸宅。西鉄(西日本鉄道)と国鉄(現・JR九州)の筑肥線が交わる辺りにあり、ずっとSLを見て育った。
▼祖父のもとに遊びに来ていた友人の会話を聞いて「偽善」という概念を感じ取る。4歳~5歳が精神的にもっとも大人で、年を追うごとに子どもになっていった、とタモリは述懐している。
▼入園予定のキリスト教系福岡海星女子学院マリア幼稚園(64年に高宮から老司に移転)を見学するため、徒歩20分かけてひとりで訪問。「♪ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」と童謡『夕日』に合わせてお遊戯する園児たちを見て「こんな子どもじみたことはできない」と入園を拒否。
▼近所に同世代の子どもがおらず、隣の「トミコちゃん」くらいしか友達がいなかった。
▼家の外で石垣にもたれながら、一日中坂道を歩いている人を観察。あとをつけたり、後で祖父母に素性を聞いて調べたりして、その家族構成などを妄想していた。
▼倉庫にあったガラクタを組み立て列車を作ったりして遊んでいた。
▼祖父はタモリをいろんなところに連れて行ったが、子どもの歩調に合わせることはせず、そのためタモリは自然と歩くのが早くなった。しかし後に東京に出た時に、それが普通だったので驚いたという。

1951年(6歳)~ 小学生時代


▼南区の福岡市立西高宮小学校に入学。初めて社会性ができる。暇から解放されたことが嬉しくて反動で同級生に教わりながら子供っぽい遊びをたくさんしていた。
▼防空壕でかくれんぼをしたとき、女の子に寄り添うように座って「腰を感じながら」隠れたタモリ。「防空壕には甘酸っぱい思い出がありますよ。あの頃もう立派な男だったんですねえ」[5]
▼皇居の方角の東に向かって校長が万歳三唱をすると言って「東向け、東」といった瞬間、タモリは「バンザーイ」とやりだしてしまい大ウケ。「あれからオレ、この世界に入ろうと思ったりして……(笑)」 [4]
▼食料や衣服の配給が行われていた時代。「自転車で帰るとき、転んで(配給の)せんべいをめちゃくちゃに砕いちゃったんですよ。それが泥の中に落っこちて食べれなくなったんですね。ぼくのほうは、足を切って血を出している。大人が心配して助けにきてくれましてね、『ぼうや、傷は大丈夫か?』ぼくのほうは、ただ『せんべいが、せんべいが……』って泣いている。貧しかったんですねえ」[6]
▼祖父はお湯を沸かすことぐらいしかできず、そのため祖母が「これからの男は料理ができないとだめだ」とタモリを台所に立たせていた。当時は眺めるだけだったが、料理好きになるのはこの体験によるものだろう。
▼叔母によると『一休さん』などのトンチ話をするのがうまかったという。音楽も好きで、姉のピアノに合わせて、よく童謡を歌っていた。
▼低学年の夏、19歳の従姉妹と親戚の家に行くため山道を歩いていた際、息を荒げる彼女のお尻を「早く行こうよ」と押した時、不意に何かこみ上げるものを感じ、女性のお尻を初めて「すいたらしいもの」(原文ママ)と意識した[7]
▼2年生の時、級長を務める。伝達事項を自主的に板書して伝えたところ教師から好評を博し、人前でなにかをやることの快感を覚える。「ぼくにとっての初舞台は教壇であった」[8]
▼小学校4年生の1学期、社会科見学で東公園を訪れた際、電柱のワイヤに顔をぶつけ、針金の結び目が右目に突き刺さって負傷。すぐに担任教師の高津文により大島眼科に連れて行かれたが、その場で「完全に失明」と診断される(この経緯は「3年生の頃に下校中」など諸説ある)。2カ月休校して治療したものの、視力は戻らなかった[9]
▼3年生の頃、祖父から『麻雀の打ち方』『麻雀の勝ち方』という本を買ってもらう。タモリが祖父から買ってもらった本は生涯その2冊だけ。夜は週の何日か麻雀に興じ、その際に酒も教わる。晩酌の日本酒に口を付けないと食事をさせてもらえなかったという。それから解放されるのは中学入学以降。
▼3年生の頃、図書館にあった伝記『吉田松陰』を読み、感銘を受ける。命日に「墓みたいなの」を自作しお参りをするほど。しかしその後『西郷隆盛』を読み、こっちのほうがすごいんじゃないかと吉田松陰のことは忘れてしまう。
▼3年生の頃、教室で誰かの書いた文章を読んでいて、先生が「さて、この作者は何を言いたかったんでしょうか?」と問われ不思議に思う。「え? 言いたいことはすべてここに書いてあるじゃない」と [10]
▼4年生の頃、学年のボスに反抗。10人くらいに囲まれ殴られる。自分が親友だと思っていた男が密通していたことを知る。それからまた友達がいなくなった。「あれからだよ、世の中を恨むようになったのは」[11]
▼5年生の頃、小学2年生の女の子を好きになる。「俺は自分が小学生でありながら、既にロリコンだったんだよ(笑)」[12]
▼5年生の時、予餞会(卒業生を送る会)で友達を強引に口説き「コント烏天狗」を披露。それがウケずトラウマに。「いまだに番組の企画だとかにかかわらないのはその傷のせい」[13]。また、友人と漫才も披露していた。
▼未亡人でヒステリーの女教師が父兄参観日にコロッと態度が変わり猫なで声になったのを見て、女は信用できないと学ぶ。
▼祖父が浪花節を好きで、寿々木米若や春日井梅鶯などを見に行っていた。ラジオで夜8時からの『浪曲天狗道場』を聴き、9時からのNHKニュース解説を聞きながら眠りにつくのが日課。またNHKラジオ第2放送『気象通報』などの意味のわからなさが心地よく、FEN(現AFN:米軍放送網)や北京放送もよく聴いていた。これが後の外国語モノマネの基礎となる。さらにラジオドラマも好きで真似をしていた。「とくにあの暗い奴がいいですね(笑)。妙にマがあいたりなんかして」[14]
▼落語が好きでよく聞いていた。当時は志ん生、文楽という違うタイプの名人が活躍していた。
▼高学年になって行動範囲が広がり、筑前高宮駅で線路の分岐を見るようになる。「線路の上をずっと乗り継いでいけば、日本中どこにでも通じているんだ、というのが不思議な感じでね」[15]
▼電車の運転手や車掌に憧れる。しかし中学に入ると全然その気がなくなったという。
▼通信簿にはずっと「落ち着きがない」と書かれる。
▼極度のなで肩だったため付いたあだ名は「矢印」。

1957年(12歳)~ 中学生時代


▼南区の福岡市立高宮中学校に入学。同校の後輩には森口博子、氷川きよし、高橋真梨子、博多華丸らがいる。タモリ宅で2013年に同校出身の芸能人で「高宮会」が開かれた。
▼陸上部で活動、短距離走(100m、200m)では学年で2位だったが、どうしてもトップの「野田」には勝てなかった。ちなみに50mのタイムは6秒8。
▼1年生の頃、母親がゴルフブームの到来を予期してゴルフ用品店「森田ゴルフ」を開くも3年で廃業。タモリは高校生の頃からフルセットでゴルフをしていた。
▼2年生の頃から1年半~2年近くにわたり毎週のように平尾バプテスト教会に通う。理由はR.H.カルペッパー牧師の話す言葉が面白かったから。この時の体験がニセ牧師の芸につながっていく。嵐の日にも教会に行き、信心深いと勘違いした牧師に感激される。年に1度開催された女子高生も参加する海水浴も楽しみのひとつだった。
▼2年生の頃、トランジスタラジオを自作。それまでも鉱石ラジオや真空管ラジオを自作していた。高校生の時には短波ラジオを製作。「まず俺はラジオの『作り手』から入ってるからね」[2]
▼2年生の夏休み、福岡の郊外にあった金持ちの友人の別荘に3日間宿泊。初めて別荘でする掃除や料理はどれも新鮮で楽しすぎて「泥酔」したようなハイテンションな状態(もちろん酒は飲んでいない)になった。ボートを海に出してみんなが海に飛び込み泳いでいるのに併せて、タモリも飛び込んだ瞬間、「俺は泳げないんだ」と気付いたという。「でもそれから泳げるようになった」[16]
▼2年生の時、学級委員長を務めるがほとんど何もやらず、担任から「君は無責任だ」と言われ自分が無責任なのを自覚する。
▼2年生の時、自ら立候補して弁論大会に出場。絶対に優勝すると意気込んで「放射能がどれだけ怖いか」をテーマにスピーチするも入賞すら叶わなかった。教師からの講評では「大局のことを言っている人がいましたがもっと身近なことを」と半ば名指しで批判された。翌年、再び立候補。今度は「もっと挨拶をしよう」をテーマに語り、宣言通り優勝を果たした。「コツが分かったんです。この学校の先生の考え方が」(『ラジオ深夜便』14・10・27)
▼3年生の時、生徒会副会長に。当時、高宮中は日本有数のマンモス中学で、もっとも生徒が少ない3年生でも11クラスあった。2年生は第1次ベビーブームだったため21クラス、1年は22クラスで全校生徒は2300~2400人。
▼3年生の頃、アイススケートをやりたくなって母親と一緒にスケートリンクに。しかし、母親が満州時代やっていて上手かったため、スポーツを母親に習うのがイヤですぐにやめた。
▼暇があれば港に行き、貨物船などを見る。2年生のころになると、貸しボート屋の「Aクラスディンギー」が目に止まりヨットに興味を持ち始め、船の種類を調べいつか自分も乗ってみたいと思うようになった。またヨットの小説を書き始めるが3行で終わってしまったという。
▼授業を聞いてないふりをして外を眺め、教師に「こいつ聞いてないな」と思わせておき、指されるとちゃんと答えるという遊びを開発する。
▼中学の時は、先生はかわいそうな存在だと思っていた。安月給でよく面倒な悪ガキを教えていると。新任の先生が来たときは、「早く一人前になってほしい、冗談がわかるようにみんなで育てなきゃいけないとね(笑)」[4]。ちなみにタモリはTBSドラマ『自主退学』(90)で、生徒からリンチを受ける教師を演じている。
▼満州出身のため餃子がよく食卓に並び、ひとりで52個食べたことも。だが最近は1日2食で量も少ない[17]

1960年(15歳)~ 高校生時代


▼県内有数の進学校、福岡県立筑紫丘高校に入学。卒業生に池田成志などがいる(池田も早稲田大学第二文学部哲学科中退)。
▼共学だったが、1~2年生の時は女子だけのクラスがひとつあったのみ。3年生になると志望校別の混合クラスが3クラスほどでき、タモリは運よくそこへ。だが女子とは「どう話していいのか、どう接したらいいのか、まったくわかんなかった」[17]
▼剣道部と吹奏楽部を両立[18]。ラグビーに興味を持つが、試しにラグビー部の友人とスクラムを組んでみたところ、向いてないと諦めた。
▼数学に関しては「白痴」。一方、国語と社会は得意だった。「『現代文の森田』といったら、大変なものだった」[10]
▼2年生の時、『シャボン玉ホリデー』放送開始。タモリの好きな番組になる。
▼2年生の頃、アマチュア無線の免許を取得。船舶の無線通信士を志すが、苦手な数学・物理・化学が必須科目だったため挫折。
▼気象通報が好きで地学を選択。授業で気象通報の録音を聴き、天気図に等圧線を引くのがたまらなく楽しかった。小学生の頃から天気図を好み、むちゃくちゃな等圧線を書いて遊んでいた。
▼2年生の頃、柳生新陰流兵法居合道の2段を取得。通っていた道場が福岡のローカル局から取材を受け、タモリの練習風景がテレビに映る。従ってタモリが初めてメディアに登場したのは、実はこの時だった。
▼3年生の頃、近所の後輩の家でアート・ブレーキーの『モーニン』を聴き衝撃を受ける。音楽好きの家庭に育ち、自身も小さい頃から民族音楽などを耳にしていたが、こんなにわけのわからない音楽は初めてだと、むきになって繰り返し聴いたことでその虜になる。
▼吹奏楽部では、なんとか前面に出たいという思いからトランペットを練習、「陰の工作」で先生に認めさせトランペット担当になった。
▼3年生の夏休み、西九州を友人たちとヒッチハイク旅行。長崎の西海橋などに訪れる。
▼美術の教科書にあった長谷川等伯「松林図」に衝撃を受け、日本画と水墨画を好むようになる。近年では曾我蕭白の自由奔放さにも惹かれ始めた。
▼同級生によると「不快感を与えたくないから」とよく右眼を手で隠していたという。
▼実母が3度目の結婚。初婚・再婚・そしてこの3度目の結婚で、それぞれふたりずつ、6人の子どもを産む。「私は妊娠しやすいタイプ」とタモリに語っている。
▼博多のジャズ喫茶「リバーサイド」に通い始める[19]
▼自分のなかに潜んでいる「龍」がいつか出てくるんじゃないかと思っていたが、高校卒業時くらいに、そんなものはいなかったと気付く[17]
▼どうせ行くなら面白いところがいいが、国立大学には行けそうもない。地元の私大は面白くない。早く家を出てひとりで住みたいと思い、早稲田大学を目指す。
▼受験前の1カ月間、目黒の「石政石材店」の裏のアパートに住んでいた従兄弟のところに居候し、毎日その石屋を眺めていた。通りを挟んだ向かいに中国人姉妹が住んでいて、その家の前で滅茶苦茶な中国語を大声で喋って「誰カ、キタカ?」と言われるのを楽しんだ。そして銭湯からあがって坂を下りながら「どうなるのかなぁ、俺は一体?」と思っていた[20]

1963年(18歳) 浪人生時代


▼受験に失敗し浪人の身となる。庭と石垣が両側にあるはなれの部屋で勉強。
▼座禅を組み、言葉の無用さを悟る。
▼法学部に入った友人のアパート(東横線都立大駅近く)に居候。あまりに雑念が多くて勉強ができず、六法全書の売春禁止法の項目を読んだりしていた。
▼渋谷で地下鉄に乗ろうと地下を探したがなく、地上を走っているのを知ったことがきっかけで、土地の「高低差」に興味を持ち始め、坂道が好きになる。

1964年(19歳) 大学生時代


▼早稲田大学第二文学部入学。適当に論理をふるっていればなんとかなるんじゃないかと西洋哲学科に。高校時代から能書きで人をまくのが得意だったから向いている、と。授業は「おもしろくなかったね(笑)」[21]
▼「モダンジャズ研究会(通称ダンモ)」に在籍。「タモリ」と呼ばれるようになる。同期には後に世界的ギタリストとなる増尾好秋、1年先輩にベースの鈴木良雄、『タモリのオールナイトニッポン』初代ディレクターでジャズ評論家の岡崎(本名:近衛)正通らがいる。
▼モダンジャズ研究会の合宿の通過儀礼、岡崎(近衛)による号令のもと新入生が脱がされる際に、タモリは自らストリップを始め、腹がすわっていると称賛される。ちなみにタモリは「俺の尻は色白でプリンプリンしていて、キュンと持ち上がってて、すごくかわいいカッコイイお尻」と自画自賛している。また「赤ちゃんの肌」のようにスベスベしているとも。もともと肌荒れしやすい体質だったが、エスキモーの風習にならい石鹸を使わずに入浴することで改善。石鹸は肌を守る皮脂も落としてしまう、身体の汚れは10分以上お湯に浸かれば自然と落ちるというタモリ式入浴法は医学的にも実証されており、福山雅治らも実践。
▼都立大学駅付近で居候していたが、その友達と共に、学芸大学駅付近に住んでいた同級生のアパートに移って3人で住む。その向いの部屋が新婚で、その時初めて喘ぎ声を聞く。「もう毎晩聞くのが楽しみになった(笑)」[21]
▼また大学の近所の、友達の下宿にも出入りする。宿泊禁止だったが、大家のおばさんや親父さんを懐柔、可愛がられていっしょに酒を飲んだりしていた。「年寄りに対するアマチュアのインタビュアーとしては、ピカイチ、ですからねぇ……。戦前の事件とかをきいて『そういうことですか、真相は!』と。まぁ、当時から、『いいとも』やってたんですね」[17]
▼仲の良かった名古屋出身の友人のアパートにも居候(後に赤塚邸で自作のラジオドラマパロディを作る「劇団仲間」のメンバー)。その兄がヴィブラフォンやマリンバの有名な奏者で、テープレコーダーやステレオなどの高価な機材を所有しており、そこで番組のパロディを作って遊ぶ。「そのなかの一つで『朝の教養講座』というのがありましてね、そこで『ココアの歴史』というのをメチャクチャに語る。大学教授が(笑)」[14] 。またこの兄弟との生活で名古屋人の特性を知り、後に展開する名古屋人批判のベースとなる。
▼1年の時は授業にも結構ちゃんと出ていたが、2年の頃から早大闘争が始まり、大学に行かなくなる。
▼2年の時、憧れの吉永小百合が第二文学部に入学(西洋史学科)。学生食堂で偶然向かいの席になる。残したトーストに手を付けるか迷った挙句「オレは硬派な人間である」と思いとどまる。
▼2年の5月、連休中に同級生3人と旅行。その時、最初に仕送りが来ていたのがタモリだったため旅費を立て替えたが、その後ふたりとも返さない。そのため大学は3年時に「学費未納のため抹籍」に。「でも、あいつらとはいまだに付き合ってますけどね」[23]。抹籍後もモダンジャズ研究会は続けた。
▼20歳の頃、偶然入った渋谷の喫茶店のウエイトレスに一目惚れ。友人たちの助けもあり付き合うことになり、数カ月後、半ば強引に初体験。翌日、相手は田舎に帰ってしまった。その直後、高まった性欲が抑えきれず、友人と一緒に川崎のソープに行く。
▼マイルス・デイビスが好きだったタモリはトランペットを担当したかったが、先輩から「マイルスの音は泣いてるけど、お前のラッパは笑ってる」[23]と言われ司会の道へ。この先輩が誰だったのかは、鈴木良雄、菅原正二ほか諸説あったが、『SWITCH』(2015・5)のインタビューで故・瓜坂正臣であると明言。ちなみにこの直後、マイルスは『マイルス・スマイルズ』(66年)を発売。「マイルスも笑ってるじゃないか!」
▼当時の早稲田にはハイソサエティオーケストラ、ナレオハワイアンズ、モダンジャズ研究会、ニューオルリンズジャズクラブ、オルケスタ・デ・タンゴ・ワセダの5バンドがあった。ハワイアンでは司会を務めていたのは、後のフジテレビアナウンサー露木茂、および同じく後のフジテレビ松倉悦郎。タンゴの司会は後のTBSアナウンサー松永邦久。ハワイアンの副マネージャーは後のCMディレクター川崎徹。ハイソには「日本一音の良い」と言われるジャズ喫茶「ベイシー」のマスターで、オーディオマニアの菅原正二がいた。
▼司会術の基礎を松倉悦郎に教わったタモリのトークは評判となり、メンバーからも「俺たちはお前の喋りの合間に演奏しているんじゃない」と言われる。「俺は喋りでいけるかもしれない」とタモリが思ったのはこの時が最初だという。
▼大橋巨泉司会の『大学対抗バンド合戦』(TBSラジオ)で優勝。タモリの司会は巨泉にも一目置かれる。
▼司会とともにマネージャーを務める。マネージャーは重要なポジションゆえ選挙では選ばれず、直接先輩マネージャーから指名される。4年の時の夏休みの演奏旅行で、半分ぐらいまで来たところで、その先輩から鞄を渡される。それが完全な引き継ぎの儀式。ただ一言だけ「お前、これ持て」それで今日から自分が全権を持つと把握する。マネージャーが早稲田のOB会「稲門会」から演奏の仕事を取るために、ジャズ研から託される接待費は8~10万円。マネージャー手当もあり、演奏旅行が多く組まれる夏は1カ月に30~40万の収入があった(当時の大卒初任給は2万円ほど)。
▼夏はバンド旅行に明け暮れる。鈍行列車で地方を周り、1カ月ほど家を空けることも。ステージは昼夜2回公演で、終わるとまた鈍行に。移動中の列車では、中国人になりきったタモリが困っている演技をし、仲間が「誰か中国語が分かる人はいませんか」と尋ねるいたずらをよくしていた。2000人近くのキャパを持つ福岡の九電記念体育館も満員に。毎晩飲み歩いてもまだ余る位のギャラがあった。合宿もあり、その最後は楽器別の大宴会。
▼この頃、実父が死去。
▼横須賀に住む母方の祖母に会いに行く際、「赤い電車」の京急を使用。先頭車両で「お、このカーブをこのスピードで突っ込んでいくのか!」と興奮[15]。また横浜を「自分が思い描いていた都会」と感じ大好きになる。それもあって現在、横浜に一本で行ける東急東横線沿いに自宅が。なお祖母は96歳で他界。「100歳まで生きたら『徹子の部屋』に出してやる、と言っていた」[24]
▼赤塚不二夫の『天才バカボン』を読んで衝撃を受ける。「こんなバカなことやっていいんだ、こんなバカなこと書いて出版していいんだ、ありなんだと思いました」[25]
▼『婦人の冷感症』(正しくはシュテーケルの『女性の冷感症』と思われる)を古書店で購入。「これを想像力たくましく読む。オレって想像力をそういうところで鍛えた」[26]
▼秋葉原の「東京ラジオデパート」によく通う。ラジオを聞くのも自作するのも好きだったタモリにとって夢の様な場所。「九州にいたでしょ、こういうところが無いんですよ。なかなか部品が手に入らなくて。俺、なんで東京に生まれなかったのかな? って思ったもん」[27]
▼この頃から新宿のジャズ喫茶に通い始める。
▼モダンジャズ研究会のヨット好きの先輩にヨットについて指南を受け、鎌倉でスナイプに乗せてもらう。

1970年(25歳)~ サラリーマン時代


▼祖母が亡くなったため、祖父の面倒を見る名目で福岡に呼び戻される。祖父は、76歳で62歳の女性と再婚。「一義クン、わたしどもの年になると、もうダメだね。一週間に一ぺんぐらいかね」[4]。この再婚により、タモリが再び上京できる下地が整った。
▼親族から半ば強制的に保険会社(朝日生命)に入れられ、営業職に就く。約4年間勤務。「ベラベラしゃべるから信用されずダメだった」と本人は言うが、外交員として優秀者招待旅行コンクールによく入賞していたと当時の上司は証言している。運転免許を持っていなかったためバスで得意先を回っていた。また社員旅行のバスでは、ニセ中国語で進行役をしていた。
▼26歳の時に、朝日生命で先輩だった2歳年上の井手春子さんと住吉神社で挙式。披露宴は焼肉屋「敦煌」で行われた。なお、新しい辞書の語釈を考える企画で「結婚」について「愛で始まり、やがて憎悪に変わり、感謝で終わるもの」と定義している[28]
▼早稲田の先輩・高山博光(現:福岡市議会議員)が経営する日田観光会館に転職。傘下のボーリング場の支配人、フルーツパーラー「サンフレッシュ」の初代支配人を務める。客の注文を逆さまに言ったり短縮したり(「ミックスジュース」を「ミィジュー」、「ブルーマウンテン」を「ブルマー」など)していたら「おかしなマスターがいる」と評判になった。ちなみにボーリングのハイスコアは267。
▼仕事が終わると、天神のジャズ喫茶『COMBO』に通う。
▼72年、博多で山下洋輔と渡辺貞夫のコンサートが行われる。公演後タモリは、渡辺貞夫のマネージャーを務めている学生時代からの友人(とタモリ本人は語っているが、一方で山下の「タモリは、ジャス研出身のバンドメンバーに会いに来ていた」という証言も存在する)と、彼らの宿泊先のタカクラホテル福岡の一室で呑み、午前2時頃帰宅すべく部屋を出て廊下を歩いていると、どこからかドンチャン騒ぎと笑い声が聞こえてきた。それが山下洋輔バンドの部屋だった。そのドアの隙間から中村誠一が無茶苦茶な歌舞伎をやっているのが見え、タモリは「俺はこの人たちとは気が合うな」と思い、「気が合うんだから入ってもいいだろう」と部屋に歌舞伎口調で「この世の~」と歌いながら入っていく。夜明けまで騒ぎは続き、タモリは「あ、森田と申します」とだけ言い残して帰った。これが後にタモリの「3大セッション」のひとつに数えられる。
▼その半年後、山下は博多で一番古いジャズ喫茶『COMBO』に向かい、「森田という男を知らないか」と尋ねる。タモリはそこの常連客だったため、店主・有田平八郎はその場でタモリに電話し再会が叶う。(『タモリだよ!』[平岡正明/CBS・ソニー出版/81]によれば、ホテル乱入事件の前に有田はタモリを山下に紹介しており、既に面識があったという説もある)
▼その後、山下洋輔のバンドがコンサートツアーで九州に行くたびにタモリは「どこからともなく」現れ打ち上げに参加した。
▼74年2月、高校3年の明石家さんまが2代目笑福亭松之助に弟子入り。同じ頃、ビートたけしが浅草でツービートを結成。すなわちタモリは芸人としてたけし、さんまの後輩にあたる。

(つづく)
―#1 1945年(0歳)~1974年(29歳)―




*次回:2014年3月20日(木)掲載

2014/03/13 更新

 

 


[個人ブログ「てれびのスキマ」での『タモリ学』関連エントリ]
  • マンガ 募集
  • コミックエッセイの森



  • [作者より]
    3年近くかかってようやく『タモリ学』完成しました。精魂込めて書きました。正直言って自信作です! 是非、手にとって読んでみてください!
     
     



    [1]『徹子の部屋』テレビ朝日(12・12・27)
    [2]『われらラジオ世代』ニッポン放送(13・10・23-25)
    [3]『ぴーぷる最前線 タモリ』武市好古 編/福武書店(83)
    [4]『タモリと賢女・美女・烈女』家庭画報 編/世界文化社(82)
    [5]『ブラタモリ』NHK(10・10・7)
    [6]『加藤登紀子の悪男悪女列伝』加藤登紀子/潮出版社(85)
    [7]『百万人のお尻学』山田五郎/講談社(92)
    [8]『こんな男に会ったかい 男稼業・私の選んだベスト9』村松友視/日本文芸社(84)
    [9]『女性自身』(82・4・22)
    [10]「はじめてのJAZZ。」『ほぼ日刊イトイ新聞』(05)
    [11]『逢えばほのぼの 檀ふみ対談集』檀ふみ/中央公論社(82)
    [12]『笑っていいとも!』フジテレビ(14・2・14)
    [13]『阿川佐和子のこの人に会いたい 8』阿川佐和子/文藝春秋(11)
    [14]「広告批評」マドラ出版(81・6)
    [15]「TITLE」文藝春秋(06・10)
    [16]『笑っていいとも!』フジテレビ(14・2・10)
    [17]「タモリ先生の午後2007。」『ほぼ日刊イトイ新聞』(07)
    [18] Wikipedia「タモリ」の項より。出典は不明
    [19]「クイック・ジャパン」vol.41/太田出版(02・02)
    [20]『タモリ倶楽部』テレビ朝日(13・8・9)
    [21]「宝島」宝島社(83・5)
    [22]「第800号記念 タモリ ロングインタビュー」『早稲田ウィークリー』800号(97)
    [23]『タモリが本屋にやってきた』
    [24]『タモリ倶楽部』テレビ朝日(13・10・11)
    [25]『これでいいのだ。 赤塚不二夫対談集』赤塚不二夫/メディアファクトリー(00)
    [26]『愛の傾向と対策』タモリ、松岡正剛/工作舎(80)
    [27]『ブラタモリ』NHK(09・11・19)
    [28]『笑っていいとも!』フジテレビ(2014・1・24)
  • 戸部田 誠(てれびのスキマ) (とべたまことてれびのすきま)

    78年生まれ、いわき市在住のテレビっ子。お笑い、格闘技、ドラマ好き。『週刊SPA!』「日刊サイゾー」「水道橋博士のメルマ旬報」で連載中。『splash!!』『TVBros.』などに寄稿。近著に『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか~絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コアマガジン)がある。
    個人ブログ「てれびのスキマ」
    http://littleboy.hatenablog.com/