日比谷、市ヶ谷、四ツ谷、千駄ヶ谷、阿佐ヶ谷…そう、
東京は「谷」に満ちている! そのスリバチ状の地形に隠された、
ストーリーを紐解いていく。驚きと発見の町歩きに出かけよう。
神社と寺院の立地は、地形の凹凸と深く関係している。
東京に限らず、地形の起伏を意識しながら町を歩いていると、神社や稲荷、地蔵、庚申塔などを見かけることが多い。それらが祀られているのは、地理的に特色のある場所、例えば街道の分岐点であったり、町の境界部であったりするのだが、地形的に見ても「特異点」である場合が多い。
代表的な神社を地形図にプロットすると、それらは地形的な特異点に立地していることが分かる
特異点とは、丘の頂、台地の先端部、平地の中の微高地などのことである。それらは神社や寺院などができるよりも前、集落や村が生まれたときからの、原初的でバナキュラー(土着的)なパワースポットだったに違いない。誰の目から見ても神聖に思えるそれらのスポットは、集落あるいは村の「鎮守の杜」として、侵されることなく、人の営みをずっと見守ってきた。そんな場所にいつしか神社や稲荷が建立されたのであろう。
『神社は警告する』(高世仁、吉田和史、熊谷航 著/講談社)では、「津波が到達した浸水線を辿ってゆくと、なぜかそこには神社がならんでいる」という事実を紹介している。東日本大震災の直後、仙台市の浪分神社は、かつての津波が手前で止まったという伝説で話題となったが、浪分神社は地形的に見ると仙台平野(沖積低地)の中にある自然堤防(微高地)に立地していることが分かる。歴史ある神社のロケーションには、古代からのメッセージが含まれていると言ってもよい。
それでは東京の都心部について、具体的に神社の立地を眺めてみよう。
本郷の台地の突端にあるのは湯島天神や神田明神。台地と窪地が複雑に入り組む淀橋台には、神楽坂上の築土神社や市ヶ谷の外濠を見下ろす亀岡八幡宮。溜池の崖上に祀られている山王日枝神社。山と錯覚するような岬状の突端には愛宕神社や西久保八幡神社が鎮座する。
というように、多くの台地の先端部は鎮守の杜として聖域となっている。これは都心に限ったことではなく、郊外においても、神社のロケーションは土地の起伏と深く関係している。身近な神社に立ち寄った際は、ぜひ周囲を見渡してみてほしい。
一方、寺院の立地に関しては、相反するふたつのパターンがある。ひとつは神社と同じく台地や丘に建立されているもので、もうひとつは台地に切り込まれた谷の最深部、すなわちスリバチに立地しているものだ。
前者の多くは将軍家に関係する、あるいは徳川幕府の庇護を受けていた寺院である。かつて上野の台地を占有していた寛永寺は、徳川将軍家の祈祷所・菩提寺として有名だし、音羽谷を正面に構えた象徴的な丘にある護国寺は、徳川綱吉が母・桂昌院の願いを受け建立した寺院である。荏原台の突端を占める池上本門寺は日蓮聖人入滅の霊場で知られるが、関東武士の庇護を受け、紀伊徳川家の祈願所でもあった。
では、後者の事例、スリバチに立地するタイプのものについて考えたい。
谷頭や窪地が選ばれた理由には、都市域の拡大とともに、寺院が時の権力者によって強制的に当時の郊外へと移転させられたことが関係している。寺院の移転先は、当時はまだ、利用されていなかった土地が多かったのだ。利用されていなかった場所が、窪地、湿地、そして谷戸などだったのだ(谷戸とは関東地方特有の呼称で、関東ローム層が厚く堆積した台地を刻む谷地形をこう呼ぶ)。興味深いのは、寺院に付随する墓地が、スリバチ地形の底面を満たすよう築かれている場所が多いことだ。東京スリバチ学会では、墓地で埋め尽くされた、弔いの谷戸を「クボチ」もしくは「スリボチ」と呼んでいる。墓場のある谷は古来「地獄谷」と呼ばれたが、その地獄谷も宅地開発の中で「樹木谷」という呼び名に転化されている。都内には「樹木谷」と呼ばれる場所が三カ所存在しているので紹介しておきたい。
高輪にある樹木谷を台地から眺める
ひとつ目は麹町の善国寺坂がある谷戸で、千鳥ヶ淵川の谷頭にあたる。坂の名はもともとこの谷にあった日蓮宗善国寺に由来し、江戸初期は他にも多くの寺院が集まる葬送の谷であった。善国寺は江戸中期の都市拡大に伴い、神楽坂へと移転した。善国寺とは神楽坂毘沙門天のことで、現在はこちらの名のほうが親しまれている。
ふたつ目は神田明神の北側、蔵前橋通りの清水坂がある谷地のことだ。ビルが建ち並んでいるため地形を把握しにくいが、神田明神の裏手は急峻な崖地となっていて、対岸の丘には妻恋神社が祀られている。
3つ目は高輪にある谷で、玉名川支流の谷頭にあたる場所だ。元来は刑場があった谷戸とされ、現在は緑の生い茂る共同墓地に利用されている。
スリバチギンザと呼んでいる高輪の凹凸地形を海側から眺める
さて、東京スリバチ学会が「スリバチギンザ」と呼んでいる高輪の台地は、低地に向かっていくつものスリバチ状の窪地が刻まれ、岬状の台地と窪地を交互に楽しめるスリバチ散策の適地であるが、ここでは神社と寺院の立地に注目したい。
まず窪地に立地するのは、東禅寺・泉岳寺。いずれも崖下から湧き出る清水を活かして池を造り、境内の庭園に取り込んでいる。一方、岬状の台地突端には御田八幡神社や高輪神社、品川神社などがある。極めて相反的な立地特性とも言えるが、どちらも地形的には丘と谷の最深部、行き止まりの「奥」という点で、ネガポジの関係になっているところが興味深い。
東禅寺と泉岳寺境内には湧水池があると紹介したが、谷頭=水源という場所に寺院が建立された理由として、水源を守る、あるいは水利権を押さえるという解釈も可能だろう。水源に立地する寺院としては調布の深大寺を代表例として、渋谷川水源の天龍寺や蟹川支流水源の太宗寺など、都内には多くの事例が存在する。
さて、最後に話を神社に戻し、興味深いエピソードを紹介しておきたい。
かつては東京湾が入り込んでいたと言われる日比谷入江の先端部分、今で言うと大手町のビジネス街の、高層ビルに囲まれた一角に「将門の首塚」が祀られている。今でもビジネスマンが参拝に立ち寄る姿をよく見かける。将門の首塚とは、天慶の乱(979年)と呼ばれる紛争で、下総で殺され、京でさらされた平将門の首が、その怨念で大手町まで飛んできて落ちたとされる伝説の地を祀ったものである。
天慶の乱とは、東国の人々にとって、京都政権の強権に対する独立戦争的な意味合いがあり、搾取に苦しめられていた辺境の民にとっては一筋の希望であったとも言えよう。だから徳川家康は江戸を統治する際、先住民の気持ちを重んじ、政権の信任と安定を得るために首塚を丁重に祀り、将門信仰を重んじたのだ。
それに対して、尊王・アンチ徳川を掲げた明治以降の政府は、かつての朝敵であった将門塚をとても粗末に扱ったため、不幸が続いた。塚を取り壊して庁舎を建てた大蔵省では、大臣他幹部41名が次々と急死。戦後には、ここを整地しようとしたGHQの工事関係者が事故で亡くなっている。また、塚の敷地にかかって建てられた長期信用銀行は倒産した。その他にも、お供え用のお神酒を飲んだら会社が火事になった、など逸話は尽きない。いわゆる「将門の祟り」である。
平将門にまつわる神社を結ぶと北斗七星が現れる
徳川三代に仕えた黒衣の宰相天海僧正は将門の強い怨霊を、江戸の守護神として祀ったと言われる。都内には将門を祀る場所が7つあり(首塚・神田明神・築土神社・兜神社・鳥越神社・水稲荷神社・鎧神社)、それぞれが主要街道の出入り口にあたる場所で、江戸城を守るように配置したのだとされる。地形的にはいずれも台地の突端や微高地など、特異点にあたる。そしてさらに興味深いこととして、それらの場所を結ぶと北斗七星の配列が武蔵野台地に浮かび上がるのだ。ひしゃくの先が指すのは、動かざるものの象徴として、徳川家康が祀られている日光東照宮に他ならない。
ぜひご一読ください。
【目次】下線の記事は、試し読みが可能です。
プロローグ スリバチとは何か?─赤坂・薬研坂 皆川典久(エピソード1~11も)
エピソード1 パーフェクトな窪地の町─荒木町、白金台、幡ヶ谷
エピソード2 谷町とギンザの意外な関係─戸越銀座
エピソード3 窪みをめぐる冒険─鹿島谷(大森駅)
エピソード4 スリバチ・コードの謎を解け─大久保、池袋
エピソード5 整形されたスリバチ─弥生2丁目、大森テニスクラブ、高輪4丁目
エピソード6 地形鉄のすすめ─銀座線、丸ノ内線、山手線、東急東横線、東急大井町線
エピソード7 肉食系スリバチとは─等々力渓谷、音無渓谷(王子駅)、東武練馬駅
エピソード8 地形が育むスリバチの法則とは?─白金、麻布台
エピソード9 公園系スリバチを世界遺産に!
エピソード10 神と仏の凹凸関係─麹町、清水坂、高輪
エピソード11 スリバチという名のパワースポット─明治神宮、おとめ山公園、清水窪弁財天、お鷹の道と真姿の池
エピソード12 川はどちらに流れる?─古隅田川、隅田川、利根川 佐藤俊樹
エピソード13 東京の階段をめぐる 松本泰生
エピソード14 私が暗渠に行く理由。 髙山英男
エピソード15 暗渠に垣間見る“昭和”─阿佐ヶ谷 吉村生
エピソード16 小盆地宇宙とスリバチ─若葉町・鮫河橋谷 上野タケシ
エピソード17 幽霊はスリバチに出る─谷中三崎町、池之端2丁目、高田1丁目、十二通り 中川寛子
エピソード18 地形で楽しむ不動産チラシ 三土たつお
エピソード19 人の目を通して感じる東京─新宿・思い出横丁、広尾-六本木 浦島茂世
エピソード20 「人工スリバチ」の因縁─ららぽーとTOKYO-BAY 大山顕
エピソード21 スリバチ散歩と地図 石川初
エピソード22 デジタル地図が拡張する地形の魅力 石川初
エピソード23 「東京の微地形模型」と地形ファン 荒田哲史
エピローグ スリバチ歩きは永遠に 皆川典久